「井伏鱒二と庄内竿」 1、2345






 第21話  井伏鱒二と庄内竿 1   平成15820


本名井伏満寿二(明治31年〜平成5)、広島県に生まれ早稲田大学仏文学科中退。ペンネーム井伏鱒二として大正8年頃から著作活動を行うも、文芸作品としては中々認めてもらえず直木賞を貰ったのは40歳の時であった。受賞作は「ジョン万次郎漂流記」であった。

井伏満寿二を井伏鱒二なるペンネームに変えたのは、氏が無類の釣好きが嵩じた物と勝手に解釈している。事実釣に関しての多くの随筆、随想を書き残しているし、日本の釣文学にも「釣師釣り場」の中からの抜粋で何篇か載っても居る。

そんな井伏鱒二氏であるから、庄内の事を書いた物を探していたらあった。地元の釣具屋であった根上悟朗氏の書いた「 随想庄内竿 (日本の釣文学にも載っている)の中に井伏鱒二氏が書いたものからの抜粋で幕末から明治の竿師、釣師の平野勘兵衛の逸話が書いてあった。調べると光丘文庫の蔵書の中に井伏鱒二氏が小説新潮の19598月号で発表した物で題は「庄内竿」〜釣師・釣場〜であった。それは1960年にまとめられ出版された「釣師・釣場」の中にも掲載されている。

「勘兵衛(平野勘兵衛と云い庄内藩の弓形総支配)という人は明治29年まで生きていた弓師なんです。竿作りの名人だが、釣りも名人です。処がある日勘兵衛が倅を連れて釣に行った。どういうものか勘兵衛にはさっぱり釣れないのに倅の方はひたひたと釣りあげる。家に帰ってから倅は自慢してに『お父さんが餌の蝦を分けてくれればもっと倍も釣れたのに。』と云うと母親が『あなた、もっと蝦を分けてやればよかったに。』という。すると勘兵衛は一時声を張り上げて『勝負の道は女ベラの知った事ではない!』と女房を叱りつけた。」以上は本間祐介氏(酒田の名士で竿師山内善作より竿作りを伝授されその昔釣具屋を営む)か酒井忠明(庄内藩主の子孫で釣を趣味とする)のどちらかから聞いた物であると推測される逸話である。

庄内の武士の釣の名残りとして中々面白く読んだ。秋磯のクロコ釣(メジナの当歳魚)に出かけた時のものである。当地ではクロコ、篠子鯛などの小物は釣ってきたその晩に、一晩かけてすべて焼き干にして冬に備える風習があった。焼き干にしてしまえば、ダシにしても、甘露煮にしても色々と使い道がある。鶴岡の磯では一人二百、三百匹は当たり前のように釣った。中には千匹と云う釣師も居たという。だから魚の処分で家の女衆は大変だったという。私の従姉妹も鶴岡に嫁に行って夫が釣ってきた魚を舅と一緒に焼いた事を聞いた事がある。鶴岡では其れが当たり前の事だった。仙台では晩秋の11月に釣ったハゼでお雑煮のダシを取るが有名であるが、鶴岡では秋磯で釣ったクロコでダシを取っていたのである。

              参考図書: 井伏鱒二 小説新潮 1959年8月号「庄内竿」〜釣師・釣場〜



 第22話    井伏鱒二と庄内竿 2  平成15820


井伏鱒二氏が無類の釣好きが嵩じ小説を書く傍ら、釣に関しての多くの随筆、随想を書き残して居る。

そんな井伏鱒二氏が、平野勘兵衛の合わせ竿を使って、最上川河口でハゼ釣に挑戦している。多分本間祐介氏から借用した物であろう。

「穂先が細く長さは六尺(1.8m)、手元が六尺の二間半(4.5m)であった。これは弓師が弓を作る技術でもって創製したもので薄く削った四枚の竹を重ね合わせて細く削ったものであるそうだ。可愛い海魚のメジナ(当地ではクロコという。当歳魚)を釣る目的の竿である。この魚は風の強い日に良く釣れる。白波の砕け散る中でよく釣れる。だから竿の先が揺れないようにするため竹の皮と身と皮と身を四枚お互いに合わせて削る。三枚ではいけない。四枚、六枚と偶数でなければならない。」と書き記している。

孟宗竹を使って四枚をニベと云う接着剤使い張り合わせるその技術は、久しく絶えていた。あまりにも難しい技術なのである。酒田の中山賢士(学校教員で多彩な趣味を持ち、退職後は好きな竿作りに励んだ竿師で、素人の域を超え竿師でその技術は一流であった)と本間祐介氏(父が鶴岡から養子となり本間本家から分家した。山内善作から竿作りの技術を習い酒田にて釣具屋を営むも戦時中からの本間家の危機に際して当主の代理人を勤めた酒田の名士である)が再現しようと試みた事がある。本間祐介氏がまず平野勘兵衛の合わせ竿とおぼしき合わせ竿を二本手に入れて一年間かけてじっくりと研究し試行錯誤の上合わせ竿4本完成した。上記の文章を見ていると明らかに継竿であり、二間半と云うのは合わせ竿にしては長すぎる。平野勘兵衛の合わせ竿は小物釣用でせいぜい78尺と思われるからである。それに勘兵衛が生存中は述べ竿全盛の時代であったし、竹竿を継ぐ技術はあったにしろ二本組み、三本組の継竿にする技術はなかった筈である。せめて真鍮の螺旋パイプとかの記述があれば分かるのだが、もうこの時代に釣をした人達はすべて亡くなっており誰にも聞く事は出来ない。


              参考図書: 井伏鱒二 小説新潮 1959年8月号「庄内竿」〜釣師・釣場〜

 第23話   井伏鱒二と庄内竿 3   平成15820


釣に造詣が深く、自ら釣をしていた井伏鱒二氏が小説新潮の
19598月号で発表した「庄内竿」〜釣師・釣場〜を読んだ。中央の文人が庄内竿についてどのように思っていたのかを知るに大変興味があったからである。過去に発表された庄内竿についての記述は間違ったものが多い。実際に庄内に来て調べた上での記述ではなく、文献を見てそのまま書いて文にした物が非常に多い。何時だったか関西のある釣関係の出版社に間違いを指摘した事があったが、なしのつぶてであった。其れからはするだけ無駄だと悟った。自分も詳しい事は良く分からないが、知っている事は出来るだけ今の内に後輩に教えておこうと思っている。

その文章は五月の下旬、高島屋で開かれた魚拓展を井伏鱒二氏が見に行った事からはじまる。その際、特別展示で見覚えのある庄内竿を見た。井伏鱒二氏は酒田の本間祐介氏との出会いがあり、庄内竿を見たり、聞いたり、又彼のコレクションを見て実際に使って見たからである。魚拓展には日本最古の魚拓で庄内藩の若殿様の「錦糸堀の鮒」が展示されていたに違いない。本間祐介氏は、経済人として、又文化人として酒田を代表する人物であったが、その昔鶴岡の竿師で名人と云われた山内善作氏に師事し庄内竿の作り方を学んだ人物である。

「山内善作は気に入った若竹を見つけても、五年経たぬと絶対に切らなかった。誰かに切られてしまうと云っても平気でした。一般の人はすっと先まで伸びている竹に目を付ける。しかし、実際に良い竹は先から四分の一くらいのところに張りがある。山内さんに云わせると竿は根元を残す事が難しい。根元から78寸上手く伸ばしているかどうかで竿の良否が分かるんだ。それに穂先の付け方一つで竿の生命が決定すると云うのです。あの人のところには晩年穂先が付いてない竿が五本か六本ありました。其れを作ってから二十五年も経たのにかかわらず、気に入った穂先が見つからないと云うのです。おそらく生きているうちは見つからないだろうと云っておられました。」

決して事竿に関しては妥協を許さないと云う竿師の心意気というか、名人は違うと思った。其処が釣具屋を営む売らんが為の竿師と士族上がりの竿師の違いである。山内は庄内竿を完成させた陶山運平の兄で「垂釣筌」著したことで有名で且つ自分でも竿作りをしていた陶山橋木の孫儀成の長女まさの長男である。また、竿師山内作兵衛の長男で血統的にも申し分のない人物であった。鶴岡町役場に勤務の傍ら竿作りを行い、退職後は本格的に竿作りに励んだと云う人物である。良い竿を作るに手間隙を惜しまない士族の竿作りを継承した最後の名竿師であった。又、先人の名竿を手本に独自の竿作りの道を開いた名竿師でもあった。良い竿は作る人は出てきたが、名竿と呼ばれる物は出ていない。


              参考図書: 井伏鱒二 小説新潮 1959年8月号「庄内竿」〜釣師・釣場〜

 第24話  井伏鱒二と庄内竿 4   平成15820


名竿師は庄内竿を手間隙かけて大事に作る。又、名釣師はその庄内竿を大事に扱う。釣具屋の作った竿には名竿と呼ばれる竿は非常に少ない。殊に幕末から明治にかけて士族達が手間隙かけて作った名竿に中々勝る竿はない。

初期の庄内竿は確かに魚を釣るための道具としての竿が多い。その為、技術的には非常に幼稚な物ではあったが、其れがかえって荒削りの野武士のような感じを起す物もあるから不思議である。自家用で自分が作る竿であったから、そんな竿があっても不思議ではない。他の人から見れば唯の汚れた素人作りの竿ではあるが、荒削りであっても又、多少の傷があっても手間を惜しまず、月日を重ね鍛え自分に合う良い竿がを作った。だから、自分の使う竿は大事にした。武士が名刀を大事にする心と同じである。庄内での名竿は釣が「釣芸といわれ武芸の一つであったから、名刀と同一線上にあった土地柄だったのである。そんな逸話が井伏鱒二氏の随想にあった。

「山内竿(山内善作)を持っていた小野寺某が本間祐介氏に頼みで酒田の釣竿の展覧会に名竿を出品する事になった。その時借りに行った三郎という使いの者の肩には宇野香山(宇野江山の間違いか?)から借りた竿を担いでいた。小野寺某は竿の持ち主の名前を聞き『他ならぬ本間様からのお頼みだによって自分も出品する事を承知した。しかし、承知はしたが香山の竿と俺の竿と一緒に担いで貰う事には反対する。お前酒田に帰りあらためて出直してきたらどんなもんだ。じゃあ折角だからこうしたらいい。香山の竿は左手の肩に担ぎ持って、俺の竿は右の肩に担ぎ持って行け。酒田に帰るまでどんな事があっても絶対に俺の竿は地べたに置く事はならんのだ。』鶴岡から一里半の押切(現在の三川町押切)での事、小僧は長い事二本の竿を担いできたが、小便がしたくて我慢が出来なくなった。竿を地べたに置くことは出来ない。キャベツ畑があったのでキャベツの上に竿をかけて用を足して酒田まで帰った。」とある。これに後日談があって本間祐介氏が可哀想だと自分で自転車に乗り竿を担ぎ鶴岡まで運び、小僧を汽車で鶴岡まで行かせて持ち主に届けさせたという。長竿の延竿であったので汽車やバスでは運べなかったのである。延竿の扱いの知らない小僧は云われたままに長い延竿を担ぎ、ひたすら二十数キロを歩いたのであった。

庄内の釣師達は基本的に自分の竿は自分で手入れをする。師弟関係があった時代は師匠が弟子にマナー、釣り方だけではなく竿の手入れまできちんと教えた。昨今は竿の手入れを出来ぬ釣師も増えて来たが、未だメンテナンスを出来る釣具屋、竿師の方がいるので頼むしかない。但し、基本的には自分の竿は自分で手入れするのが当たり前で出来ぬ者は庄内竿を持つ資格はない。自分も幾本かの庄内竿を持っているが、あまり良い竿ではないから、安心して竿の手入れが出来る。殊に名竿は陽の当たらぬ適度な乾燥する場所とか使用後のメンテナンスには気を使うし、値段もかなり高価だから持ちたくとも持てないのである。師弟関係があった時代には、師匠の体が弱くなって釣に行く事が出来なくなったり、亡くなると竿を大事に出来る弟子選び名竿を与えその者に託した。これが今に伝わる遺言竿といわれる竿である。名竿は子孫だけではなく、師弟によっても伝えられてきたのである。


              参考図書: 井伏鱒二 小説新潮 1959年8月号「庄内竿」〜釣師・釣場〜

 第25話  井伏鱒二と庄内竿  5   平成15年8月22日


「庄内竿は東京竿の三間
(5.4m)の太さが四間(7.2m)の太さである。」
と氏は書いている。

庄内竿は細く長く、しなやかである。胴または元調子の竿はしっかりと魚を捕らえ細い糸でも魚を捕らえ放さない。満月に弧を描く姿は、見た人を魅了する。しかし、その庄内竿にも欠点はある。持ち重りがすることである。昭和30年代以降、長い竹が無くなって来た事から標準竿が二間半(4.5m)に変わってきた。二間半と云っても実際に売られていた竿は、既製品でないから二間2尺前後のものである。二間半(4.5mを越えた竹は非常に少なく高価のものであった。子供の頃から庄内竿に慣れてきた者とっては、その調子を当たり前と思ってきているが、初めて既製品の先調子のグラスロットを買った時には面食らった。こんなので魚が釣れるのかしら・・・・・!!と思った。ヘラ竿などでは一時先調子、軟調子、極軟調子など色々な調子の竿が出ていたが、昨今は当りを取りやすく、数を釣る為の先調子の竿が大半で他の調子を探すのは大変である。釣りを楽しむための竿があっも良いのではないかと思うようになってきた。

そんな庄内竿を氏は「色は年月をかけ竃(かまど)の烟(けむり)にくすべるのだから竿は焦茶色(こげちゃいろ)になっている。竹の肌と竃の烟。この二つがほどよく合致融合する事は、殆んど民族的に我々の認識しているところである。この焦茶色の細くさらりと伸びた釣竿は岩礁に砕ける白波にも映りが良い筈だ。谷川の青い淵にも映りが悪くないと思う。」と結んでいる。焦茶色と表現しているが、見慣れている私たちには深い飴色に近い色である。和蝋燭の蝋(ワックス)で竿を延し、煤棚(ススダナ)に保管する。長い間様々な釣師によって使われて来た、庄内竿の名竿はいも云われる芸術品と化するのである。


              参考図書: 井伏鱒二 小説新潮 1959年8月号「庄内竿」〜釣師・釣場〜