本名井伏満寿二(明治31年〜平成5年)、広島県に生まれ早稲田大学仏文学科中退。ペンネーム井伏鱒二として大正8年頃から著作活動を行うも、文芸作品としては中々認めてもらえず直木賞を貰ったのは40歳の時であった。受賞作は「ジョン万次郎漂流記」であった。
井伏満寿二を井伏鱒二なるペンネームに変えたのは、氏が無類の釣好きが嵩じた物と勝手に解釈している。事実釣に関しての多くの随筆、随想を書き残しているし、日本の釣文学にも「釣師釣り場」の中からの抜粋で何篇か載っても居る。
そんな井伏鱒二氏であるから、庄内の事を書いた物を探していたらあった。地元の釣具屋であった根上悟朗氏の書いた「 随想庄内竿 」(日本の釣文学にも載っている)の中に井伏鱒二氏が書いたものからの抜粋で幕末から明治の竿師、釣師の平野勘兵衛の逸話が書いてあった。調べると光丘文庫の蔵書の中に井伏鱒二氏が小説新潮の1959年8月号で発表した物で題は「庄内竿」〜釣師・釣場〜であった。それは1960年にまとめられ出版された「釣師・釣場」の中にも掲載されている。
「勘兵衛(平野勘兵衛と云い庄内藩の弓形総支配)という人は明治29年まで生きていた弓師なんです。竿作りの名人だが、釣りも名人です。処がある日勘兵衛が倅を連れて釣に行った。どういうものか勘兵衛にはさっぱり釣れないのに倅の方はひたひたと釣りあげる。家に帰ってから倅は自慢してに『お父さんが餌の蝦を分けてくれればもっと倍も釣れたのに。』と云うと母親が『あなた、もっと蝦を分けてやればよかったに。』という。すると勘兵衛は一時声を張り上げて『勝負の道は女ベラの知った事ではない!』と女房を叱りつけた。」以上は本間祐介氏(酒田の名士で竿師山内善作より竿作りを伝授されその昔釣具屋を営む)か酒井忠明(庄内藩主の子孫で釣を趣味とする)のどちらかから聞いた物であると推測される逸話である。
庄内の武士の釣の名残りとして中々面白く読んだ。秋磯のクロコ釣(メジナの当歳魚)に出かけた時のものである。当地ではクロコ、篠子鯛などの小物は釣ってきたその晩に、一晩かけてすべて焼き干にして冬に備える風習があった。焼き干にしてしまえば、ダシにしても、甘露煮にしても色々と使い道がある。鶴岡の磯では一人二百、三百匹は当たり前のように釣った。中には千匹と云う釣師も居たという。だから魚の処分で家の女衆は大変だったという。私の従姉妹も鶴岡に嫁に行って夫が釣ってきた魚を舅と一緒に焼いた事を聞いた事がある。鶴岡では其れが当たり前の事だった。仙台では晩秋の11月に釣ったハゼでお雑煮のダシを取るが有名であるが、鶴岡では秋磯で釣ったクロコでダシを取っていたのである。
参考図書: 井伏鱒二 小説新潮 1959年8月号「庄内竿」〜釣師・釣場〜
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