庄 内 竿 の 話


調査しながら書いてますので新しい事が分かり次第、内容をかえていきます。
庄内竿を作っていたり、使っていた人たちの大部分が故人になっており大変難しいのです。以前先輩に教わったり聞いたりして覚えていた事を頼りに書いてますので、まだまだ知らないことも沢山あります。


1. 庄内竿は原則的に苦竹(ニガダケ)?で作られている。

庄内には昔から布袋竹、真竹、黒竹、矢竹、女竹、大名竹、苦竹等の竹、笹の類が昔から自生しています。
庄内竿は一般的に上記の内、苦竹で作られており通称女竹と云われ東北に多いアオネザサ?の一種でその変種ではないかと云われています。
この竹は6月に出て来る筍が苦い事から地元では、昔から通称
苦竹(ニガタケ)と云っております。
篠竹、釣瓶竹と酷似しており、とても肉厚でとても強靭で軟らかい竿が出来ます。
この苦竹は、元々庄内地方を中心に新潟県北部から秋田県の海岸沿いに自生していた笹竹で、その土地の気候、風土により竹質もかなり違っている様です。比較的良い竹薮の中から基本的に一本の延べ竿から作られる為に庄内竿に出来るのは70〜100本に1本
位と云われております。更に竿師と竹薮の減少加え一本一本が手作りで4〜5年かかる為、量産が出来ないことから大変高価な竿となっています。
昨今、自生している良い竹薮は、ほとんどなくその昔竿を作るために植えてあった竹薮か、冬の北西風を避ける為に家の周りに植えてある竹薮位しか残っていないと云う寂しい現状です。

苦竹の竹藪 関東で云う女竹とそっくり(?)だが、筍の付き方等に違いがある。又時々苦竹と大名竹、女竹等の合いの子も見られると云う。また、3年古以上でも細い穂先(=ウラ)がしっかりと付いているものもある。この点が関東の通称女竹といわれるものや矢竹、篠竹等と大きな違いがある。


竿竹の採取
江戸時代の武士たちは旧暦の7月の下旬から10月の上旬にかけて竹を採取したと文献(野合日記=秋保親友)にありますが、現在では水揚げの終了した11月の中旬から12月の上旬にかけて採取しているようです。一度雪の降った後が一番良いと云う竿師の方もおりました。
さらに良い竹を採取するには海岸から8〜12km離れた場所で冬の季節風(北西風)を直接受けない東か南側に生えた竹(風雪で痛んでない竹が多い)を採取しているようです。
文政年間の文献には「竹を切る人たちが多く、良い竹が見つからない。竹やぶには竿切の道までついている。」と云うものがあるほどで、如何に当時の武士たちが釣道に励んでいたかを物語るエピソードではないでしょうか?
庄内竿の特徴として、根っこをつけて掘るのですが、掘るには長いノミ状の突きクワを使います。昔は刀を加工してまで作った武士も居たそうです。根付のままで採取する為に竹の周囲を突きクワで地中深く突き、鉄鎚で鉄棒をたたいて地下茎を切断して採取します。何故根を付けるかと云えば、竿を少しでも長く使いたいと云う事が定説となっている。しかし、その後竿尻も竿の善し悪しの一部となって来ている。
人よって違いがあるようですが、掘り取った苦竹の枝を落とし根の泥を洗い流し節を削り袴を取り除きます。次に米ぬか、籾殻などで表皮を良く磨きますが、表皮を傷めない為に第一回目の火入れ時の竹の油が染み出した時に丁寧に拭き取る竿師もおります。乾燥していくと良い竹は青みかがった乳白色の竹肌へと変化して行きます。その後天日で乾かし肌が白くなったらいよいよ矯めに入ります。荒のし、中のし、仕上げのしの工程を行います。特に荒のしは素早く廻しながら稈全体が平均して温まるようにして行い温まったら和蝋を塗り、和蝋に火が着く瞬間に取り出して竿を矯めます。矯めが終わった処で濡れタオル等で冷やします。これを何回か繰り返す。次に節と節の間を少しづつノシて行く。ここでその竿の良し悪しが大体決まります。これを4〜5年繰り返すと、キチットしまり癖の出ない、釣りに使える竿となって行くのです。
特  徴
竹の最大の特徴はなんといっても布袋竹と同じように穂先(当地の竿師はウラと呼びます)まで非常に繊細であることです。
2年古(にねんこ)まではほぼ100%ウラがありますが、3年を過ぎると雪や季節風等でウラが枯れてしまう竹が出てきます。周囲に大きな木とか土蔵など(風、雪を遮蔽するもの)があると3〜4年古でもウラの付いているものがあります。それ故竹の素性が良く、ウラの付いている竹は特別珍重されます。竿に出来るのは3年古〜4年古(2年子は柔らか過ぎて非常に癖が付き易く、昭和30年代までは量産すれば直ぐに売れたので大部分が3年古と称して、2年古を売っていた)で、ウラが枯れて穂先が使えない竿のみ漆を使って穂先の部分(ウラを最大でも30cm以内)を継いだ。真鍮パイプの継竿でも穂先1本全部別の竹を使ってしまうと
通称後家竿と呼ばれ嫌われている。
ただ、ヤダケを使って竿を作った場合には、そのままでは穂先が太過ぎるので、穂先に苦竹のウラを付けて仕上げていたようである。


上は、チューブラの穂先、中採って来たばかりのニガタケの先、自作外ガイドを付けたニガタケの穂先
昔の武士は竿の製作に精魂を込め気に入った竿が完成すれば、自分の銘と製作年さらに採取した地名等を竿に彫り込んだと云います。きっと刀鍛冶が名刀に自分の銘を彫り込むのと同じ心境だったのではないかと思われます。この気風は現代の竿師の方々にも引き継がれてきておりますが、竿に一点の傷を付けたくないと云う、名竿師も多く存在しておりそれらは竿の作り方で判断しなければならない名竿も多いようです。特に明治期の上林義勝以降では銘を入れている竿師は少ないようで刀と同じように余程の目利きを必要とします。最近では鑑定出来るの方も少なくなっているのが現状です。
通称庄内竿と云われる以外の竿
庄内で作られていたのを庄内竿というのであれば、苦竹の他に鶴岡では独特の4枚合わせのケヅリ竿(表皮を内側に張り接着し削る。現在継承者は誰もいない。関東の穂先を作るやり方で孟宗竹を小物釣用の1間半くらいの竿を作っている人はいるようですが・・・)、大名竹、矢竹製の竿があり、酒田では根付の布袋竹、唐竹(真竹)に穂先を布袋竹で継いだ竿、矢竹や少し太めの苦竹を使った車竿(大正時代に作られたブッコミ竿)等もありましたし、この他苦竹と他種の合いの子みたいな竹竿のものも存在しました。
現在ではアマチュアの竿師達が鶴岡、酒田を含め結構入るようですが、苦竹で庄内竿を専門に作っている竿師は各一名くらいづつでしょう。
又、苦竹には、二種類ありまして白竹(シラタケ)と斑竹(フダケ=斑入りの竹)があります。白竹は柔らかくその中で特に細いものを鶴岡の釣師たちは好んで使ってます(江戸期の残っている名竿は殆どが白竹である)。一方斑竹は白竹に比べて硬いのですが、斑の入り方が面白いと斑竹を好む釣師もおります。竹藪の土壌に住む菌の関係で80から90%以上が斑竹だそうです。ですから、無菌状態の土に植えると白竹が生えて来るそうです。それだけ、汚染されて来たのでしょうか?


2. 庄内竿は延べ竿であること。
もともと庄内竿は雑魚を釣る延べ竿からやがてクロダイを釣る為の竿へと発展した竿でしたが、短い五尺(1.5m)クロコ竿(メジナの子)から長い四間(7.2m)を超える赤鯛、鱸竿まであります。
基本的に一本の苦竹で作られている庄内竿は、少しでも長く使いたいという考えから作られているので必ず根っ子がついている。
現在では実用も当然であるが、其の根っ子の形の良し悪しも鑑賞の対象に成っており美形ものは特に珍重されている。
その根っ子の形は大きく分けてズングリムックリの芋根細長い牛蒡根とその中間に当たるもの等がある。
竿にするには、大抵3〜5年古を使っている、それら苦竹は穂先が枯れてしまっているものが多く、その場合のみ真綿を巻いて其の上に漆で掛け(ウラを継ぐと云う)ます。
全国的に見ても基本的に一本の竹を使い、竹を削ったり、漆を塗ったりしないで一本の竹竿を作って居るのは珍しいのでないかと思います。


致道博物館の庄内竿
(上から二番目が上林義勝の榧風呂4間1尺の鱸竿、4番目が丹羽庄衛門の臥牛=庄内藩のお手本竿で4間3寸5分の赤鯛竿です)
昔の名竿の大半が残念なことに携帯のため継ぎ竿に変えられてしまい、本来の調子を失った竿が多数あります。
正統な庄内竿とは延べ竿で苦竹の特性を最大限生かし、強く弾力と反発力を持った竿である。
苦竹の表皮をそのまま生かし磨き上げ、手に持つとしっとりとした重量感があり、其処から魚のあたりが手に取るように感じられる竿でもあります。
最近では継竿も延べ竿の範疇に入れているが、しかし戦後作られた中通し竿はピアノ線で穴を開けているので未だに延べ竿として認められていない。。


3. 庄内中通し竿とは
庄内竿=中通し竿と云う伝説が生まれたのは、終戦直後に真鍮製の螺旋パイプ継の苦竹の竿にピアノ線で穴を開けて、道糸を通し小型同軸リール(松印、冨士印、後にオリンピック製等)を付け黒鯛とのやり取りがより簡単になった竿が開発されてからである。
延べ竿でのやり取りは、弱い糸の弱点を竿の弾力で殺す釣なので技術的にかなり難しく、年季を重ねた釣師(玄人と云った)でないと大型の黒鯛、鱸は釣れなかった。ところがニガ竹製の庄内中通し竿は魚とのやり取りが比較的簡単に習得できたので、竿の手入れの要らないグラスロッドに変わって行くまでの終戦直後から昭和45年頃迄大流行した。化学繊維の竿は釣具屋、手先の器用な釣師の人達が各自の創意工夫で並継、振り出しのグラスやカーボンロッドを改造し中通し竿(案内板とリールシートをただ竿に付て道糸を中に通したもの、ハカマを付けて竿を少し長くし糸絡みを少なくしたもの、道糸が絡まないように同軸リールを逆に着けてアルミ製の小さなパイプを通して尻栓から道糸を通したもの等)にしていたが、その後、中通し竿を釣具メーカーが、見よう見真似で庄内限定で販売されるようになった。
それで庄内竿=中通し竿と云われる様になった理由である。。いつしか延べ竿自体の釣法が引き継がれ、さらに中通しの特性をプラスされて庄内の独特の中通し釣法が生まれたのです。私の聞いている範囲では、昭和40年頃の時点で中通し竿を使っていたのは小田原と庄内しかなかったと聞いております。
ちなみに鶴岡の釣人は比較的に細い並継のヘラ竿(リールが付いて竿の中に糸を入れているのでロッドケースに入れると場所をとるのが欠点です。標準が4.5mで4本〜5本継だとロッドケースに仕舞い込むのに結構幅をとります。それで居て購入価格が高い。その代わり、多少肉厚で丈夫、細い竿で中調子、胴調子が好みにあっていた。)を改造している人が多く、一方酒田の人は携帯に便利で安価な振り出し竿(ロッドケースに2〜3本は軽く入る。並継竿より軽いが、多少肉薄であり、竿が太い。)を改造している人が多かった様です
4. 釣法の違い
鶴岡と酒田の釣が違うのは城下町と商人町の気質の違いから来ているのではないかと思います。
昔は鶴岡の大名釣り(ポイントを決めたらえび等を撒餌をしてじっと待つ釣)、
酒田の貧乏釣り(撒餌はせず10〜20分位でポイントを次々に変えていく釣)と云っていたものです。これも城下町、商人町の特性から来たのでしょうか?それとも磯と防波堤の釣の違いから来たのでしょうか?其の両方でしょうか?
基本的に鶴岡の完全フカセに対して、酒田は川の流れのため錘を付けて釣ります。
ともあれ、基本的に黒鯛を狙う為の竿として、庄内竿は作られたのですが、釣る魚の種類により色々な竿が出来ました。
庄内竿は定法があり5尺(1.5m)のクロコ竿、2間(3.6m)の二歳竿、3間4尺5分(6.75m)の真鯛竿、3間5尺(6.9m径1.8cm)の黒鯛竿、4間3尺(8.1.m)の鱸竿が代表的なもので他タナゴ、ソイ、メバル、アブラコ、鯉、鮒、なまず竿等がありました
参考 其の1 大正時代の延べ竿(小物釣用で6〜9尺で主に鮒を釣っていたと考えられる)
大正期の小物竿 大正期の小物竿
参考 其の2 中通し竿に使った小型同軸リール(昭和30年代前半の物)
左小松リール 右がオリンピック製 反  対  側
参考 其の3 黒鯛竿の名竿の標準

長  さ m cm
9尺 2.7m 2分5厘 0.75cm
2間 3.6m 3分 0.9cm
2間3尺 4.5m 3分5厘 1.05cm
3間 5.4m 4分 1.2cm
3間3尺 6.3m 5〜5分5厘 1.5〜1.65cm
4間 7.2m 6分 1.8cm

黒鯛竿でも特に夏から秋にかけて小型を狙う竿として、シノコダイ竿(篠子鯛=秋に釣れる当歳)9尺、二歳竿(ニセェ竿=2〜3年物から黄鯛クラス迄を釣る竿で比較的手軽に引きが楽しめます。)と云い1間〜2間半等があります。
現在では昔と違い道糸、ハリスが丈夫になり細い仕掛けでも大型の黒鯛が釣れますが、余程の良い竿でないと魚を上手にあしらう技術が必要であり下手すると竿が折れてしまう危険があります。
残念な事に現在では、竹薮の減少と竿師の高齢化で手に入れることの出来る竿は2間半までで3間以上の竿はまず不可能です。



     















庄 内 中 通 し 竿


写真は昭和48年ごろに購入した30年物の中通し竿の中の一本で庄内竿2間2尺5分です。
この細さでも30cm位の黒鯛でも耐えられます。ただ、私の竿はあまり良い竿とはいえませんので、それ以上は怖いです。

アオネザサ(青根笹)

静岡の国立植物園に依頼し調査してもらった所、東北各地に多く自生しているアオネザサではないかと云われたそうです。
しかし、地元の人は其の植生(殖え方など)から見て少し異なる見たいと云うが・・・?

子苦竹の特異な繁殖として親竹は6〜7年で枯れてしまうが、地下茎が伸び其の節から竹が立つと同時に3年立つと其の根に子竹が出てくる。又3年たつと其の根に孫竹が立つ。他のメダケ属の笹と繁殖方法が異なる。関東および以北に多いアオネザサの突然変異した竹(笹)では無いだろうか? 
本によっては、ニガタケを独自の竹(笹)と分類するものもある


笹と竹の区別はそうはっきりした物ではなく高さ、葉の違いなどで区別されている。だから編集なさる人により図鑑などの分類でも多少異なる事もあるようだ。

植物図鑑によればアオネザサはイネ科メダケ属に属するとあり、メダケ属にはアオネザサ、アズマネザサ、オシロマチク、カムロザサ、カンザンチク、タイミンチク、ネザサ、ハコネダケ、フシゲアズマネザサ、メダケ、リュウキュウチク等がある。
アオネザサはトヨオカザサ、ノビドメザサ、ウワゲネザサ、ホソハバノアズマネザサ、ボウシュウネザサ、コシメダケ、リョウケネザサ、シラカワザサ、ウスイザサ等の異称があると云う。
桿は高さ1〜4m、径2〜17mm、無毛で節や桿鞘(竹の皮)にも毛が無い。枝は節より1〜3本ずつ出て良く分技する。葉鞘には上向きにまばらに生える特性があり、紫色を帯びることが無い。葉身は披針形-狭披針形で紙質、長さ3〜25mm、幅5〜25mm、先は鋭く尖り基部は円形、上面は無毛時には毛が散生し、下面は無毛または中肋付近に毛があり、稀に片側に毛が現れることがある。肩毛は白色で平骨。
{分布}暖帯:本州の関東、東北に多い。

よくフライロッドに使用される通称丸節竹と竹がある。見た目は苦竹と類似する竹ではあるが、同じメダケ属に属している。ニガタケとは明らかに異なるようだ。穂先がニガタケより太いとされる。

 

酒田の車竿とは
車竿は大正時代に中山賢士、本間祐介氏により考え出された。
酒田の南突堤の鱸が沢山釣れた年があった。鱸を釣るのに、竿が長ければ沢山釣れるというので、庄内竿を長くする為に青竹、旗竿等を継ぎ足す者が現れる始末で玄人(ベテラン)の中に素人(初心者)が入ると非常に危険な事もあった。最上川側に何十人もの行列を作っての流し釣であるから、玄人の人たちは、危なくてまともに竿を振ることも出来ずにいた。そこで遠くに飛ばす工夫がないかと考え出されたのが酒田の車竿である。其れは、昭和40年代前半まで盛んに作られ使用されたが、丈夫なグラスの投げ竿の普及で途絶えた。
車竿とは、苦竹の太くズングリむっくりした竹に外ガイドを付け、リールは北海道のイトウを釣るために作られていた横転リールを使った。上手に投げると軽く100mは飛びウキを付けて、試釣に及んだ所抜群の成績を収めた。イトウを釣る為のリールで中々手に入りにくかったが、それから酒田の鱸釣は車竿に変わって行った。
その後、本間祐介氏が東京の牛込の薬屋で中西(「釣の友」の主筆)という人物から酒田で使用している車竿の事を聞かれ使い方を教え竿とリール、ウキ(酒田浮木=中山賢治考案)など一式を送った所、翌月号の「釣の友」に車リールの紙上コーチとして実釣の成果を紹介されていたという。「釣の友」にリールを使うことの是非を問うた所賛否両論(邪道といい反対する者、スポーツフィッシングとして賛成する者)あり其れが、半年も続いた。その間ちゃっかりと中西氏は外国製のリールを小型化して「中西式リール」とし、更に「酒田浮木」に多少手を加えて「中西式リール浮木」といって東京の三越などで販売していたという。
この逸話により、関東より早い時期に酒田では遠投の釣が普及していた事が分って面白い。

酒田の車竿に使った横転リール 昭和30年代のもの(小は松印、大は多分オリンピック製?)
上から見たリール 横にセットの状態