第03話    「藩主釣を奨励す?」   平成18年05月07日  

 酒井家第十四代藩主酒井忠徳(ただあり)の治世は40(1767~1805)の長きに及んでいる。この殿様は藩の慢性的な財政を立て直し、藩校致道館を作った殿様と知られている。又、又その時代家臣の心身の鍛錬に繋がる殺生(釣や鳥刺し)を遠足と称し、遠足なるものを奨励するお触書が、いくつか秋保親友(1800~1871)の野合日記(18141871の中から発見されている。酒井忠徳は、温海温泉の湯治を兼ねての磯釣を幾度となく行っている釣好きな殿様として知られている。その影響もあってか庄内の釣の名人生田権太、大物釣りの神尾文吉の両名が出たのもこの殿様の治世中の事であった。その頃天下泰平を謳歌していた江戸では一部の武士や富裕商人を中心とした釣が流行を見せていた。江戸で流行を見せていた娯楽のひとつの遊釣は、庄内藩では藩主の奨励による家臣団の心身鍛錬の為のひとつの手段として武芸の釣として認知されて来た時代であった。

 その後文政10年(1827)酒井家十代藩主酒井忠器(ただかた)の治世(1805~1842))に、釣をしていた武士が海難事故で、それが元で亡くなると云う事件が起きた。それについて「・・・御家中の人々が、鳥刺しや釣の為に遠くまで歩いていくことは健康にも良いし、又武用の一助にもなり大変に良いことである。所が磯釣りに行って海に落ちたり、鳥刺しで場所争いをすることも度々耳にする。こうした事は殿様のご意向に反する事であり、どうかと思われるので、お互い注意をしあって心得違いのないように御家中の若者たちによくよく聞かせるようにと(殿様が)仰せられた・・・・」(野合日記)と云うお触書が出ている。冬の荒海での釣で家臣が亡くなったと云う海難事故があったにもかかわらず、翌文政11(1828)酒井忠器は家中の殺生(釣や鳥刺し)禁じはせずに、注意を促しただけで終わりにしている。家臣にとって遠足は心身の鍛錬武用の一助と云う必要性の方を高く評価していたのであろうと思われる。ただ、家臣たちの間に磯釣や鳥刺しが大流行した結果、一部の者たちの行き過ぎ対し、殿様はそれについてお触書を出したと云う事である。

 次の藩主は酒井忠発(ただあき)の治世は1842~1861であるが、若殿時代江戸は錦糸堀で釣ったと云う鮒が日本最古の摺形(魚拓)として知られている人物である。当然釣が大好きな殿様で温海湯治の際の釣では、釣に熱中のあまり松明を灯して宿に帰ったと云う記録まで残っている。忠発の長子十二代長子忠寛(ただとも・治世1861~1862)は早世するも、十三代忠篤(ただずみ・治世1862~1868)、 十四代忠宝(ただみち・治世1868=明治元年 ただみち)の兄弟も釣り好きの殿様であった。ただ惜しむらくはこの兄弟の釣の活躍時期は幕末から明治の初期の動乱(戊辰の役)の最中であり、釣がゆっくりと楽しめたのは明治に入ってからのことであった。

 庄内の釣のはじめが1700年の初頭温海温泉の殿様の湯治における浜遊びの釣りから始まったのであるが、幾度となく殿様自らが釣をし、そのお相手として御家来衆達が釣の御相伴に預かったことに由来していた事が庄内の釣の発端となっている。この事は、釣を殿様自らが半ば公認として認めたお遊びに他ならないと云う事実であった。当然殿様の釣では武芸の鍛錬とはならなかったが、家臣たちが城下から海岸に出る100mの山越えで磯に至る道程、片道三里以上を重い荷物(テゴに弁当、釣具等と肩に釣竿)を背負い、さらに腰に大小を携えて徒歩で行くには一寸した体力を要する遠足(遠出の意)である。下級武士から上級武士までが夢中となったと云う釣は、当然藩主が家臣の心身鍛錬目的の為の手段としての釣の奨励、黙認がなくば行く事は出来ない事でもあったであろう。武士にとって遊釣等は、いくら太平の世だとは云え本来の武士道とはかけ離れたもので、年に何回も出かけると云う事は封建社会にあっては考えられぬ事だと考えられる。しかるに遊釣を単なる遊びとせずに、心身の鍛錬のひとつの手段として考えたところに、庄内藩独自の解釈があった。武芸の一端の釣道とする解釈でもって釣を正当化したものではないかと思える。

 藩の軍学者秋保親友は、野合日記の序文に「それ山野に鳥を追い、海川に釣網をなし歩行を健やかにするは武用の先務なり・・・遠足は武用の一助と殿様が仰せあれば、若者の務めと思い年々修行を積めり・・・。」長らく云い伝えのように殿様が磯釣や鳥刺しを遠足として奨励していたと云われて来たが、それに対する確たる証拠はなかった。一時は代々の殿様の釣を奨励したお触書のような類の文書は、残ってはいないのだから幻の伝説ではないかとさえ考えられていた。たまたま釣好きで、藩の軍学者でもある秋保親友が何十年にも渡り書いた日記の中にその一端を見る事が出来る。秋保親友は殿様のご意向に沿って深夜から早朝にかけての磯釣や鳥刺しを夜間の行軍、夜目の鍛錬、斥候(偵察行動)として捉え、磯釣に至っては心身の鍛錬と称し、日中の遠足は当然足腰の鍛錬と位置づけ家臣たちに釣を含めた遠足を奨励していたのであった。