第04話    「ヤダケの庄内竿?」   平成18年05月14日  

 矢竹で作られた竿も庄内竿と云って良いのか、どうかの判別は非常に難しい処である。庄内でも矢竹製の竿も、苦竹の竿と同じ製法で随分昔から作られてはいた。ところが苦竹で作られた竿のみを庄内竿と区別し、他の竹で作られた竿は庄内竿と認めたがらない竿師、釣り人が大半だったからである。とは云っても同じ竿師が、矢竹製の竿を作っていた人たちもいたのである。関東、関西ではこの矢竹の節を抜き竿の一部に使ったヘラ竿等が多く存在し、ポピュラーな素材として良く知られている。

 従来の庄内竿の判別では、
@基本的に苦竹の根から穂先まですべて一本竹を使った延竿である事。
  (3~4
年子で穂先が枯れて無いものに限り、別の竹で穂先を作り真綿と漆を使って継ぐ。大正の頃から23に竿を切って、それを真鍮パイプで継ぐと云う技法が開発され、昭和30年代になってやっと延竿の範疇として認められた。他の竹=同種類の竹でも途中に継ぎ足して使う事を後家竿と云い嫌っている為に量産出来ない。)
A必ず根っ子がついている事。
B竹に一切の加工を行わない事。
 (庄内では竹に傷をつける事を極端に嫌う。虫干しを兼ねて煙で燻し、竹に自然な飴色をつけている。漆で穂先=ウラを継ぐ事以外には一切加工を施さない。中通し竿は竹にピアノ線で穴を開けると云う事から、未だに庄内竿として認めたがらない。故に庄内中通し竿と云い区別している)
C竿を矯める時、必ず和蝋を用いている事=焼け焦げ等は以ての外
 (和蝋は引火点が高く、竿を矯めるに最適であるとしている)

 しかし、矢竹の竿は中、小物等を釣った時の曲がりの具合やその釣味は、竹によっては苦竹の竿と一線を画したものを味わえるのも確かである。作り方も庄内竿の工程とまったく同じである。それ故に庄内で作られた竿が、庄内竿とするならば庄内竿として認められても良いのではないかとさえ思う事がある。

 かなり昔からから矢竹竿は使われていたに違いないのだが、最初に文献に出てくるのは、「鴎涯戯画・磯釣」の第104図のそれが最初である。「生田増吉君の家に行くと一尺五寸余りの大馬面(オオウマヅラ)の皮が並べてある。今年は暮泉、沖荒崎、浦壁も大馬のいつも見ない見える沙汰だと語る。昨日の暮泉はことに大当たりで間断なく釣ったから、鉄棒の如き三十節の強竿もグナグナになった。換え竿も同様になり、矢竹竿で無ければ長くは戦えぬ・・・」とある。多分年を経た硬い矢竹の竿を連想していたのであろう。

 庄内産のヤダケ製の竿と云うは、そんなに多くは存在していない。確かに矢竹と云うものは矢に使うという事もあって、庄内各所にふんだんに生えている。何も庄内中を苦労して這いずり回り良い苦竹を探し回らなくとも、手に入れることは容易い。それ故にヤダケを使った竿がもっと沢山あってもと思っていたのだが、各時代の名人と云われる人の作った竿に矢竹の竿はほとんど無い。それを見習ってか、その他の多くの竿師が、作った竿を見ても圧倒的に数が無い事が分かった。

 矢竹の竿の特性を考えるに、丈が短く中型、小型の黒鯛までは何とか耐え得るものの大型を釣るには少し難しいと云う難点がある。軽くて曲がり面白い竿になるのだが、若竹は使っていると曲がり癖が出てくるし、又年数が経っているものは硬く限度を超えると竹が簡単にポッキリと割れてしまうと云う難点もある。だからヤダケの竹選びは、かなり難しいと云うのも事実である。であるが、自分のような竿の曲がりを楽しむ遊び釣りの人には、かなり面白いと云う竿と云う側面がある。ほんとかどうかは分からぬが、一度だけ上林義勝が作ったと云う、矢竹の竿を振って見た事がある。それは二間一尺くらいの竿で、軽く柔らかな二歳釣りが楽しめる竿であった。

 そんな中庄内にヤダケを使った竿作りに励んだ異端児の竿師が居た。昭和62年から地元紙の荘内日報に連載された「その後の庄内竿の世界のB佐藤藤吉さんの手紙」に書かれている竿師の事である。それは気に入った竿には瓢箪銘を竿に彫ったと云う大山は柳原辺りに住んでいた一柳斎中村某と云う竿師である。「昨今苦竹の藪が少なくなり、斑竹が多くなったと」云い、苦竹の庄内竿作りをきっぱりと止めてヤダケの竿を多く作った人物とされている。彼のヤダケ作りは大変変っていて、時々根を掘り出しては埋め返すと云う作業を行っていたと伝えられている。「良い根には良い竹」が出来るといい、その良い竿を作るための拘りがこの作業を行っていたようだ。8~10尺程度の小竿が多いが、名竹と銘の彫られた二間半の竿も存在しているとの事である。何時の日か、この名竹なる竹竿を一度は拝見して見たい物である。