第05話    「文久三年の釣 U」   平成18年05月21日  

 まず文久3年(1863)と云う年の時代背景は、その5年後、大政奉還がなされ明治となる激動の時期に当たっている。嘉永6(1853)の黒船の来航以降、尊皇攘夷の動きが俄かに活発となり、万延元年(1860)桜田門外の変で時の大老井伊直弼が暗殺された。次いで二年後文久2(1862)今度は老中安藤信正が狙撃されると云う坂下門の変、また同年横浜に生麦事件等が起きている。すべて徳川幕府の権威の失墜=幕藩体制の崩壊から起きたものである。御公儀より文久2年(1862)十三代藩主酒井忠篤(ただずみ・当時10)は、他の四藩と共に江戸市中取締りの任を命ぜられた。その為翌年2月に藩士の次男、三男の屈強な子弟21名ほどが国元より急遽呼び寄せられている。同年5月、彼らを中心に酒田に住まいしていた旧最上家のからの土着していた足軽目付けと合わせて新整隊とし出発する事になった。後に同隊は、江戸を離れ国許の戊辰の役に参戦し戦う事になる。

 当時の江戸には、旗本から御家人に至るまで旗本八万旗と称した精鋭の家臣団が居た筈であるが、それ等の人材の使用が出来なかった。それで東北の庄内藩等他四藩にその任を命令するしか、なかったのである。その理由とは、江戸幕府開闢以来三百五十年を過ぎて、全部が全部とは行かないまでも旗本から御家人の大方は、太平の世に馴れて親しみ戦闘集団としての武士としての質の低下にあった。その為にお膝元の江戸や天皇が住まいした京都御所の治安等が幕府の手から、譜代などの諸藩の力に頼らざるを得ない状態にあったと云う事である。

 当時庄内藩にあっては、釣や鳥刺し等の遠足(足を使っての遠出の事)を盛んに奨励していた。武士たちは藩庁に届出さえすれば、殿様の公認で遠足が行えた。山野での鳥刺しや荷物を背負い磯に出かける釣等は、太平の世に馴れて体を鍛えなくなった武士達の足腰を鍛え直す格好の遊びのひとつでもあったのである。武士本来の仕事とは、非常時の戦闘員としての仕事が第一である。平和時の武士は算術に長けた官吏の仕事で良かったかも知れぬが、事幕末にあっては本来の戦闘員としての武士の力が要求されたのは当然である。用を成さなかったが為に幕府は苦肉の策として新徴組(京都に上り、清川八郎の画策が露見し新撰組を分裂。庄内藩お預けとなり、江戸の治安を担当する)、新撰組(新徴組みから分裂し、京都を分担)と云った職を失った浪士団を集めざるを得なかった。その点、藩侯の奨励もあり、自然に慣れ親しんで体力もあった田舎武士たちは、江戸住みの武士たちよりは、いくらかましな存在であったと云える。

 さて、2月に江戸に入った庄内藩の子弟の中に釣好きの藩士の子弟がいた。それが後に「鯛鱸摺形巻」(文久2年から慶応3年に至る33)を残すことになる若干18歳の氏家直綱(弘化2年1845〜明治44年1911)である。その巻頭にあるのが、文久三年七月の夜半江戸は深川の仙台堀で一尺一寸八分の剛鯛 (黒鯛⇒当時の庄内では黄鯛とか、剛鯛と云われていた)である。ちなみにその時に使用した釣竿は関東に産する釣瓶竹で、穂先を庄内の苦竹で継いだものである。釣瓶竹はニガタケに似ているが、柔らかく穂先がない。勿論、彼が非番の時釣をしたものであろうが、当時の世情から見ればなんと不謹慎な事のように見受けられても不思議ではない。しかも、明治維新の五年前の幕末の江戸の物騒な夜にである。そこは釣は武芸のひとつとして見られていた庄内藩では、それを不謹慎と云うような事は無かったらしい。何と云っても、釣は遊びとしての釣(所謂遊釣)と云う認識が無く、あくまでも武芸の一端として見られていたからである。

 文久2(1862)から慶応3(1867)に至る氏家直綱の魚拓が33枚と云う事は、戊辰の役の直前までの五年間と云う事になる。氏家直綱の足取りを辿ると文久32月に江戸に上り、江戸市中取締りの任に付いたものの、9月には一度鶴岡に戻り、藩校であった致道館の句読師に任ぜられている。そして慶応元年(1865)にまた出府している。この間江戸と国許を何回か行ったり来たりしている事になる。その間仕事の合間を見て、好きな釣を続けていた。慶応4(1868)戊辰戦争に突入し、従軍した為に釣を一時中断せざるを得なかった。江戸の様な平地で行われた遊釣の釣と違い、山越えで行われた磯釣や鳥刺し等の遠足で足腰の鍛えられた庄内藩士達は、得意の健脚でゲリラ戦を展開し、本隊の戦闘を助けすべて藩外に打って出ると云った戦いに終始している。氏家直綱は戊辰戦争時には軍事周旋方として新発田口(新潟県新発田市)を守備、遠く長岡(新潟県長岡市)辺りにまで転戦している。命ぜられて会津藩に使いしたが、会津落城の為に帰れず仙台に逃れた。仙台で幕府海軍の総裁榎本武揚(軍艦奉行)と合流を試みるも、それも叶わずそのまま仙台に潜伏し、庄内藩の降伏後にやっと帰藩した。その後氏家直綱は、明治政府に派遣された鹿児島県出身の三島通庸(酒田県令、鶴岡県令後山形県令)に用いられ各地の郡長となり活躍した。



:「垂釣筌」に釣瓶竹の記述がある。「天保の頃(183043年)から釣瓶竹(江戸より海路で運ばれた)という細長くて強い竹が釣り竿に使われるようになったが、元から末梢まで完全なものがないので自分はこれを使わない」と。