第06話    「庄内竿と庄内中通し竿 T」   平成18年05月28日  

 「庄内竿とは穂先から根っ子まで、苦竹で作られた一本の延竿である。」と古来からずっと云われ続けている。が、しかし庄内中通し竿も同じ苦竹で作られた一本の延竿から作られている竿である。昨今では、この違いが分からずに中通し竿が庄内竿と思っている釣り人が少なからずいる。ならばこの両者の違いは何処が違うのであろうか。その最大の違いは、竿の中をピアノ線で穴を刳り貫き手元に両軸リールをつけ道糸を竿の中に通した竿(庄内中通し竿)と一本の傷一つ付けない竿(延竿)である。終戦直後に作られたこの中通し竿は、糸の出し入れが自由であった事から、それまでの弱いテグスを使っても比較的大物にも楽に対処出来たと云う事で大流行した竿である。

 庄内竿の定義は、飽くまでも一本の苦竹で作られ、作るに当たっては竿に一点の傷ひとつ付けてはならないと云う事が最大の特徴であった。然るに、一本の延べ竿のままでは、持ち運びに不便を来たした為に大八木式真鍮パイプ継なるものが、大正時代に考えられたのであった。ただこの竿と竿を継ぐ為の真鍮パイプの重さで竿の調子が、大いに狂うとされ延べ竿派と継竿派に分かれる事態を引き起こした。その後竿師山内善作により、庄内独特の螺旋式真鍮パイプ継が考え出された。その頃になると時代の趨勢は釣に行くにも乗り物の時代となり、携帯に不便な完全な延竿は、小物竿を除き長い竿はパイプ継ぎへと駆逐されて行く。江戸時代から明治、大正時代に作られた名竿の長竿の大半が、この継竿に変えられて行っている。その結果、あれほどに嫌われていた継竿も、昭和3040年代になると、極く一部の人たちを除き延竿の範疇に入ると云われる様になっていた。  

 延竿とは、そのように元々一本の竹で作られた継ぎ目のない竿を云っている。関東や関西では、かなり昔から持ち運びに便利な様に継竿として発展している。そして種類の違う複数の竹や同じ種類の竹を巧みに使い分ける事によって、様々な調子を生み出す事に成功している。そして現在でも魚種によって複数の竹を使い分けると云う形での継竿の技術が現在に続いている。また竿の継ぎ型は並継ぎ、印籠継などの方式が、使われて現在に至っているようだ。又、庄内の竿と大きく異なる点は、すべてではないが竹の節を抜き、その上竹皮を削ぎ、漆を塗って竿を造ると云う最大の特徴がある。その事は竿の実用年齢の減少と共に大きな魚が釣れると、使い方によっては竿が折れると云う可能性がある事にも繋がっている。

 庄内では武士の釣であったが為に、かたくなに昔のままの竿造りの伝統が守られて来た。魚種により、竿の調子を変えたい時でも同じ苦竹の竿に拘り、その魚に合う苦竹を探して造っている。苦竹の延竿至上主義と云う伝統は江戸末期に始まり、明治、大正、昭和へと続いた。武士主導の釣、田舎の保守的な土地柄であったが為に、その伝統が延々と現在に至るまで守られて来たのである。故に多少時代の要請に繋がる竿の改善が見られたものの、それに続く革新的な発達は見られない。

 真鯛、黒鯛、スズキの大物が釣れてもビクともしない竿、しかも弱いテグスを使っても竿の柔軟さでそれがカバー出来た竿であった事が、その伝統が忠実に守られて来たことの理由のひとつであるとも考えられる。逆に云えば、それがそれほどの進化も果たさずに現在に至った事の最大の理由とも云えるのではないだろうか。延べ竿から、螺旋式真鍮パイプ継の竿が作られてから、そこで時が止まったかのように、ずっと足踏みの状態が続いている。戦後螺旋式真鍮パイプ継の竿から、庄内中通し竿が派生したものの、これを伝統の故に庄内竿とは認めたがらない風習、伝統があった。庄内竿は細くて強靭な竿=肉厚で持ち重りのする竿でもある。この竿も庄内竿同様に穂先から根っ子までが、一本の竹に拘って作られていた為に量産が出来ない。その代わり魚が釣れた時の感触は、他の竿では全く味わえぬ独特なものがある。それでも主に延竿を使う人から見ると、庄内竿の亜流の評価でしかない。