第09話    「庄内団子釣り事始」   平成18年06月18日  

 先日鶴岡市の広報に掲載されていた加茂水族館長の「元祖ダンゴ釣」(今回出版した「庄内の磯釣り」にも出ている)と云うコラムを読ませて貰った。

 昭和50年の頃の加茂港の南突堤の先に延びる離岸提が工事中であった。それで手前の防波堤からそのまま歩いて、その工事中の離岸提に渡る事が出来た頃の話である。上層にフグ、ウマヅラ、タカバ(石鯛の幼魚)等の餌取の下に良型の二歳(黒鯛の2年子)、黄鯛(30cm前後の黒鯛)が防波堤の上から見える。誰しもが底に見える二歳や黄鯛を釣りたいと思っているのだが、誰にも釣れない。そこで思いついたのが、ふと若狭湾で行われていた赤土のダンゴ釣と同じことを館長が考えたのである。しかし、職業柄黒鯛が濁りが好きなのは分かっているが、餌を底まで持って行く粘土質の団子の作り方が全く分からない。加茂の近くの山の道路脇でサラサラな赤土を採取してそれに小麦粉をまぶし、水を加えて試して見る。そんな事を何度か繰り返している内に、何とか団子として使えそうな割合を見つけたところで釣に出たそうだ。

 折からお盆休み中の加茂の南突堤であったから、加茂の南側の離岸提は隙間の無いほどの釣り人で一杯である。防波堤の内側の撒餌を大量に打ったと見られる釣り人のすぐ脇に釣り座を確保した。潮の流れを確認し、「撒餌をして上げます・・・!」と断り持参した撒餌をすべて撒いた。その実その撒餌は潮に乗って、ちゃ~んと自分のところへ流れて来ると読んでの事である。そこにかねてから自分で工夫していた赤土の特製ダンゴを人から見えぬようにこっそり投入した。竿は自作の庄内竿21(3.9m)にハリス0.8号である。団子が着底後、竿を軽くアオってダンゴを割ると、直ぐに当たりが出た。右の手首を返して「オオッ〜! キタッ〜!!」と大声で叫んだ。

「人が釣れない時に自分だけが釣る」これがなんとも心地良く、それを一度でもやってしまうと、もう釣りは止められないと結んでいる。正にその通りである。餌取をかわしてたまたま釣れると云う運、餌取が多いと云う不運を超越し自分なりの工夫で積極的な攻めの釣りで、他の釣り人が釣れない時に自分だけが釣る。そんな時がその工夫をした釣り人にとっては、最高の至福の時を感ずる時である。

 同じ昭和50年頃の話である。東京に住んでいた従兄弟からA4版の釣の友社から出された「チヌかかり釣り」(川村秀一著)と云う分厚い本が送られて来た。「かかり釣り」と云う聞きなれぬ釣り方に興味を持った。その中の紀州釣りと云う釣法があった。それは米糠をベースにした団子を使い、桐で作ったウキを使った釣りである。その頃当地ではそんな釣をしていた人は誰もいない。興味を持ったけれども、ここではそんなので釣れる訳は無いと思った。その本の中に生オカラを使った清水港のダンゴ釣も紹介されていた。加茂の館長が試みたと丁度同じ頃に、自分は生オカラにさなぎ粉を混ぜた団子を使って団子釣りを何度か試しているのである。自分には村上龍男氏のような工夫などまったくせずに、本の通りに生オカラにサナギ粉を混ぜたものを団子にして二歳釣りに挑戦しただけであった。条件が違うからかも知れないが、釣果は二歳がたった一枚だけであった。果たしてその団子の効果があったのかどうかは不明である。丁度その頃はイサダ釣りの全盛の頃でそれに勝る釣り方は無かったので、直ぐにそちらの方に夢中になってしまい忘れてしまった。イサダ釣りはイサダ網を使って波打ち際で生きたイサダを捕まえて来る労力だけなので餌代、撒き餌代がまったく要らないと云う超貧乏釣師にはモッテコイの釣法で、ほぼ一シーズンをイサダ釣で通した事もあった。

 工夫もせずにただ釣れると云った記事に惑わされて挑戦し、効果があったかどうか不明のままに終わる人もいれば、館長のように自分で色々と工夫を凝らし自分の物にして、成功する人もいる。館長と自分と比べれば釣馬鹿の差は一目瞭然である。釣のレベルの違いと云うか、浅はかな自分が恥ずかしいと思って読んだ記事であった。何事にも一芸に秀でることは難しい。されど館長は一芸どころか二芸、三芸も秀でていると感じた。氏は地方の吹けば飛ぶようなチッポケナ水族館を日本中の何処の水族館でも相手にしなかったクラゲをメインに持って来て、日本有数の知名度のあるクラゲの水族館へと仕立て上げて、ジリ貧であった営業実績を更新中である。さらにクラゲの展示数世界一を目指し奮闘していたが、それも本年3月にそれも見事達成。そんな村上氏は館長をしながら、庄内釣りの名人として又寉岡市有数の文化人としての地位も確保しているユニークな人物である。