第11話    「たかが竹竿、されど竹竿」   平成18年07月02日  

 釣を覚えた時からずっと竹竿で育って来た者にとって、竹竿には人一倍共修を感ずる者の一人である。庄内に竿師が激減し、竿が以前にもまして高価な物になり買うに買えない状況になって来たのは残念でしょうがない。作る人が少数で需要と供給のバランスが完全に崩れ去ってしまったのだから、これもしょうがないと云えばそれまでの事である。

 それでも名知れた名人の作で名竿とまでいかなくとも、多少良い竿を持ちたい物と、かなり以前からの欲求がある。しかし、通常の釣りに使う竹竿なら実用に耐える竿であれば、どんな竿でも良いのではないかとも思っている。「弘法筆を選ばず」と云うが、所詮名竿であろうが、駄竿であろうが釣竿と云うものは魚を釣る為の道具の一つに過ぎない。竿の長短を除き、大抵の魚はテグスにハリスを付けて針を結びえさを付ければ何らかの魚が、釣れては来るものである。しかし釣が進化して来ると、あの魚この魚を釣りたいと云う要求が自然に出て来て、竿も○○を釣る為の竿と云うものが出来て来た。

 ここ庄内でも、最初の釣りは殿様を始め供の武士達が磯に生息していた小魚を釣って楽しんでいた釣りであったようだ。それが1700代末になるとそれに飽き足らず大物を専門に狙う釣師が現れた。垂釣筌に寄れば寛政、文政(1789~1817)に活躍したん神尾文吉と云う釣師が現れたのがそれである。その少し前安永から天明(1772~1788)に現れ、釣れるものなら大きな物から小さなものまで何でも釣ったと云う釣りの名人生田権太と双璧をなす釣りの名人であった。陶山槁木(垂釣筌の作者 1804~1872)は云う。「神尾文吉の釣りの技術はすこぶる高く、彼が挑むのは専ら大鱗で魂を一大竿頭に注ぎ釣をする。世に天方の釣りと云うのはこれである」又、「釣りの餌は必ず蛸を使い、陰晴、昼夜を問わず釣れるまで帰らない」と。この頃から庄内の釣り方に変化が起きて来た事が窺える。時代は少し下がるが、陶山槁木と同じ年代に活躍し「野合日記」を書いた秋保親友(庄内藩軍学者 1800~1871)も陶山槁木と共に釣れる物は何でも釣ったと云う釣り方をしている。家格も高い上司の家柄であったことにもよるのではないかと思える。血気盛んな若い釣師達にとって、大物一辺倒の神尾文吉の釣法が大方受け入れられたものと見える。

 そうなって行くと釣竿は、大型の魚に耐えうるものでなくてはならない。釣る魚別に竿を各自色々と工夫がなされて行くのは当然な事である。釣り漁師の釣らねば飯を食えぬ釣とは一線を画した釣りであったから、いくら武士の釣りとは云え、楽しんで釣る釣りの要素を加味したもので無ければならないのは当然である。兄陶山七平儀明の三男運平(1809~1885)も長男槁木同様に釣り好きな若者であった。次男儀一は田宮流の剣術を良くし、藩に召抱えられたが、三男の運平は、部屋住みの生活をせねばならぬ身であった。そこで好きな釣りを生かし、釣竿の製作に打ち込んだものと見える。その後運平は手が器用であったと見えて、求めに応じ時代の要求に合う大物にも耐えうる細くて強靭な釣竿を作った。この時代原則として自分が竿を作る慣わしであったにも関わらず、評判も良く数々の名竿(世に云う運平竿)を遺している。ここに至り運平の工夫によって、ニガダケで作られた庄内竿が完成されたと見られているのは当然のことである。1830年代に作られた運平の三間五尺の黒鯛竿(6.2m)が陶山家に残っているものが、作者の分かる庄内竿の最古の釣竿とされている。

 幕末に庄内のニガタケに似ているとされ、江戸から篠竹が運ばれて、穂先が無いのでニガタケでウラを付けた物が流行したが、柔らか過ぎて大物釣には向かなかった。やはり大物釣には、ニガタケで作られた庄内竿に限ると作られて来たものであるが、その製法その物は江戸時代末期から大きな変化は無い。原則的に根から穂先まで一本の延べ竿で、しかも竹皮に傷をつけないで作る事が庄内竿の一大特徴となっている。また、矯める時に和蝋を塗布して矯めるのも、これ又特徴のひとつである。そして、虫除けの意味を含め、竿を煙で燻して、竿に漆のような飴色を付ける。この事が実用100年もの生命を竿に与えている。

日本国中の竿をいくら探しても実用百数十年と云う竿は、他に見当たることはない。ただ残念な事に庄内竿は伝統を重んじるばかりで、下手な工夫を阻害して来た事が竿としての進化が無かった事に通じたのである。多少の進化と云えば、汽車の開通により携帯に便利な螺旋式真鍮パイプによる継竿が、大正年間に考え出された事。終戦後に竿にピアノ線で穴を開け、糸を通し手元にリールを付けた中通し竿が開発された位なものである。他の地方の和竿が時代の要求で同じ竹若しくは別種の竹で釣る対象の魚別に軽い継竿を盛んに作っている時でも、当地ではその様な作りは後家竿(何本かの竹で一本の継竿を作る方法)と云いその製法は、竿師は勿論釣師たちにも相当に毛嫌いされて来た事である。