第12話    「釣り人が育てた庄内竿 T」   平成18年07月09日  

 庄内竿のひとつの特性として釣り人(武士)自らが作り育て上げた竿と云う事が出来る。庄内では、釣りが始められた頃から特別竿師なる者が居た訳ではない。遊魚としての釣りの始まりは殿様の浜遊びのお供で、浜の釣り漁師達から竿や釣具等一式を借り上げて釣りを楽しんでいた事に由来しているのである。そんな浜遊びが次第に年を経るに従ってお供の中に釣好きな武士達が現れ、庄内中の竹薮から竿に適する竹を切って来て、自分の好みに合わせ何年何年も掛けて暇にまかせ作り上げたのが竿作りの始まりと云われている。趣味、道楽の釣竿を自分の気に入るように何年も掛けて鍛える事が出来たのは、食うに困らぬ武士ならではの趣味、道楽であったからに他ならない。

 庄内藩の軍学者として活躍した秋保政右衛門親友の書いた個人的な日記文化11年〜 明治3(1814~1870)と云う長きに渡って書かれた「野合日記」の一部を拝読すれば、苦竹の竹薮には武士達の竹探しにより踏み固められた道がついていたと書かれてある。秋保親友自身が、竿にする竹を何度も取りに行った記事もかなりのページを費やして書いているのも面白い。庄内藩の上士の者であっても、何とか名竿を得たいと云う意欲に燃えて、自ら盛んに竹薮に入り竿にする為の良い竹を探し回っていたものと見える。

 当初の釣では、殿様の浜遊びの釣りであったから、釣れるものなら小魚でも何でも良かったのである。ところが酒井忠徳の治世の1770年代に入ると、釣技が進歩して来て、潮を見る事に掛けては神業の目を持ち小物から大物まで釣れるものなら何でも釣り上げた生田權太と云う釣りの名人が現れる。そしてその10年後、今度は大物一辺倒の豪快派とも云われる神尾文吉なる釣りの名人を輩出する。「垂釣筌」を書いた陶山槁木は神尾文吉の釣りを天方(当時の庄内で使ったもので一か八かの意=大物一辺倒)の釣と称している。天然素材で作られた道糸、ハリスの弱かった時代、余程の名人でなければ大物を釣り上げる事が出来なかったに違いない。当然、すべての釣り人が釣の名人級と云う訳ではなかったから、道糸、ハリスの弱点を補うための竿がどうしても必要となる。その結果苦竹と云う竹が肉厚で中空の少ない強靭な竹でしかも魚の引きに柔軟に曲がり実と道糸やハリスの弱点を克服出来る竿として選ばれたものと考えられている。この竿は一見して見た目は非常に頼りないが、手に持って良く観察すると頗る重量がありそして粘りがあるのには吃驚する。関東、関西等の竿では、竹の節を抜いて中空にして重さ軽減し、なるべく軽くなるように作られた竹竿と比較すると、肉厚の為に庄内で作られた竿はかなり重い事が分かる。

 そして魚が釣れると手元の少し上のあたり(ものうち)から、くの字に湾曲する胴調子の真鯛竿(三間半から四間の竿)等は、60cmを越える真鯛のヒキにも十分に耐えられる。そして釣れた後は、又直ぐに何事も無かったように元の様に真直ぐな竿に戻る。竹に一点の傷を付けない延べ竿(当然節も抜かないし、皮も剥かない)である事が、庄内竿の一大特徴で、しかも矯める時に必ず和蝋を使い45年の間、毎年矯めた竿の癖を矯め直してじっくりと鍛え上げる。その間、煤棚に保管する事により、竿は漆を掛けたような飴色に変化して行く。その事が、実用100年以上と云う耐久年数を誇れる竿へと少しずつ変化して行ったのであった。