第14話    釣り人が作り育てた庄内竿 U」   平成18年07月23日  

 こんな形の庄内竿を完成させたのは、庄内藩の300石と云う上士家柄でもあった陶山七平儀明の三男陶山運平と云う人物である。陶山家の長男七平儀信(槁木)が家督を継ぎ、次男は剣術を持って藩に仕えた。当時のすべての釣り好きな武士が、手の器用な釣師とは限らなかった。運平は部屋住みの生活を余儀なくされている。そこで妻子を養う為に、生活の糧に好きな釣りを持って竿作りの工夫を行った。その完成された竿が今に残る細身で強靭な長竿、所謂運平竿と呼ばれる何本かの竿である。運平は竿作りと兄槁木が工夫した焼針を伝授されその二つを持って家業として生業とするようになった。運平以後、何故か士族に連なる者が名竿師となっている。庄内竿が武士が作ったとされているからか不思議なめぐり合わせである。そしてそんな彼らの手により庄内竿作りの製法が、継承されて来たものの、その後の多くの継承者たちは余りにも正統な造り方に拘り過ぎ、時代の変化に対応する新しい革新的な竿は作られる事はなかった。

 作り手、使い手の両者共に竿の造り方の正当性について拘り過ぎたと云う感がある。そして現在、極少数の庄内竿を愛する者達により細々と作られているに過ぎないのが現実である。庄内竿を見れば、「この作り方は庄内竿とは呼べない」、「傷がある?」、「斑が多過ぎる?」、「竿が柔らか過ぎる」等々色々と使う側からの苦情でうるさい。個人的に好きな竿であれば、それでいいのにと思う事が多々ある。しかし、そんな中から次代を背負うであろう竿が、生まれて来るチャンスもあったと考えられる。がしかし庄内竿を愛するがあまり正統性を重んじ過ぎ、ついぞそんな竿は生まれて来る事は全くと云って良いほど無きに等しかった。

 
陶山槁木の子孫の娘が竿師山内作兵衛に嫁いでいる。その子供として生を受けた竿師山内善作はその始め当時の鶴岡町役場に勤めており、釣を盛んにやった。その傍ら先人の名竿を研究し、独学で自分のものとした。本格的な竿作りは体調を崩し、市役所を退職してからと云われているが、当時としては斬新的な竿作りを行なっていたと伝えられている。大正末期から昭和の始め丈夫で堅い白竹が少なくなっていた。そこで良い竹は斑(白竹と比べると班竹は柔らかい)が入っていても、気にせず良い竹は良いとして盛んに竿として使った。又竹を磨くのに、細かい砂を使ったのもこの人が最初であるとも云われている。当時「班竹の善作」とか「竿に傷が付いている竿」とか、色々悪口を云われている。それでも良竹を選ぶ目利き、製法は抜群のものがあり、没後には大方の釣師から最後の名竿師の名を頂くまでになっている。体調を崩し、本格的な竿師としての活躍時期が短かった事は非常に悔やまれる。

 今までグラスやカーボンの竿を使って見て、竿の感度はいくら科学万能の時代と云っても自然によって造られた竹竿には絶対に叶わない。これが自分で、駄竿を作って見て分かった事である。ただ、庄内竿本来の強靭さと云う持ち味を100%生かす為には、やはり軽くする為とは云え、削ったり、節に穴を開けたりする事は中々出来ないのが本音である。いざ作って見ると加工による竹本来の力を弱める事も中々出来るものではない。とすればせめて管継ぎの部分(真鍮パイプ)を丈夫なもので、もっと軽くする素材で安く竿の調子を崩さずに出来ない物であろうかと思う位である。

 作って見て初めて先人の竿師たちの苦悩が、分かる気がした。200年と云う庄内竿の伝統の重みがあり、すでに出来上がっている物を壊し、それを凌駕する竿を作ることは並み大抵の者では到底出来ない。なまじ庄内竿と云う概念のない竿師が出て来て、同じニガタケを使って竿に出来た時に始めて革新的な竹竿が出来るのではないだろうかと思う。いや200年掛けてここまで進化して来たものに、これ以上の竿が出来る筈もないと云う気もする。残念ながら、やはり庄内竿は失われ往く運命にある竹竿なのかも知れないと云う気もする。

 道糸、ハリスが弱く、当時として釣りえなかった大魚をどうやって釣る事が出来るかと云う事が、細くて長く粘りのある庄内竿へと進化させた。先人の釣り人達が自分で竹を取りに行って竿を作り、そして使って試行錯誤を重ねた結果たどり着いた庄内竿は、正に釣り人が作り育てた竿としか云えないのではないだろうか?