第28話    「釣天狗   平成18年10月30日  

 世の中には釣り天狗なる者が如何に多く存在して居ることか?
知識も腕もそれほどでなくとも、偶々釣れた魚を殊更に大きく云い、鼻高々と釣った時の話を大げさに吹聴する。たかが30cm程度の魚が、翌日には35cm、翌々日には40cmに化けることなど、日常茶飯事の話である。そんな釣り天狗と呼ばれる人達が、釣り人の中に結構多いと感じるのは、自分だけであろうか?

 常々、多少なりとも人を見る目が有れば、その人物と少し話をするだけで、分かってしまう事なのだがと思う事しばしば・・・?しかしそんな人は、一度天狗になってしまうと、次々と話が大げさになり、残念ながら自分自身を見失ってしまうらしい。当然の事ながら、それを話している相手が絶対に分からないと思っているから、話が次々とあらぬ方向に展開して行く。後で「そんな事まで話をしなきゃあ良かったかな!」等と反省したところで、後の祭りで収拾が付かない状態となって、結局は墓穴を掘ることになる。

 この天狗なる者、現代のイメージでは面白可笑しい、間の抜けた山伏の格好をしているのが定番である。奈良時代末期から平安時代に国の許しのない私度僧(当時の僧は国の許可が必要であった。許しを得ないで僧となった私度僧の一部が山中に深く入り込み、厳しい修行を重ね精神の鍛錬を行う事で新しい道を探す者が出てきた。その私度僧の代表格が真言密教を伝えた空海である。その私度僧一部が真言、天台宗などの密教系の仏教と融合し修験道を作って行く事となった。厳しい鍛錬の結果人間業では出来ない事を平気でやってのける山伏達は、本来の天狗のイメージとダブッて見られた。それが、鎌倉、室町を経て現在のイメージに定着しているのである。本来の天狗とは一説には猿太彦命(天孫降臨の際に邇邇芸命=ニニギノミコトを途中までお迎えした人物)とするのが通例のようだ。この人物赤ら顔で、鼻が高かったと記紀に書いているから、天狗の元祖であると同時に日本固有の国津神の一人でもある。また、平安時代の頃になると天狗のイメージは、仏法の守護者と云うイメージが出て来た。ちょうどこの頃に、発展した本地垂迹説(インドから伝わった仏様が、在来の日本の固有の神となって生まれ変わったとする説)と何らかのかかわりがあるのであろう。その後、時代を経るに従って天狗に階級が出来たりして様々に分化している。どの天狗にしても鼻が高いのが、特徴だ。その高いことが、殊更に話を大げさに、鼻高々に云いふらす者と連想し、天狗になぞらえて「あの人は、天狗だ!」と云うようになった。天狗の階級は大天狗、中天狗、木の葉天狗、カラス天狗等々様々である。その階級の一番下に位置するカラス天狗は、義経紀に寄れば義経に剣道を教えたと云う事で有名である。そのカラス天狗の同類に属する天狗して、最下位にいるのが木の葉天狗がいる。その同類と思われるのが、釣りで法螺(ホラ)を吹く人を釣り天狗と名付けた。

 釣り人もそうだが、釣りを商売としている釣具屋さんの中にもそんな人達が少なからずいる事も確かである。真面目に「釣れていません!」では商売には結び付かないから、自然相手の商売とは中々難しいものである。だからと云って、余り詳しい話(情報)を教えては、店の常連さん達に苦情を云われる事も少なくないと云うから、どっちにしても程々の話をするしかない。偶々電話で客から情報の問い合わせがあり、そのやり取りの一部始終を傍で聞く機会があった。結構頓珍漢な話をして、地元の釣客の失笑を買っている某大手の出店等もある。ホラを吹くのも商売の内なんだから、「もっと上手なホラを吹いてくれや!」と云いたくなる事も少なくない。