第29話    「権 太 岩   平成18年11月06日  

 湯野浜〜加茂間の現在の加茂湊近くにある、古の生田権太の名を冠した権太岩若しくは権太場の場所を知っている者は少ない。名前は聞いた事があっても、その岩の場所を知らなかった者の一人である。以前からその場所の特定をしていたが、最近になって加茂の水族館長から大体の場所を聞く事が出来た。さて現場に着いて見ると皆同じような岩ばかりでどれが権太岩か分からなかった。

 其れが最近又、一念発起して探して見様と云う気になった。自分が所持している釣り場の案内図、かつて荘内日報社から発行された庄内名釣り場にはその岩は載っていない。その昔生田権太が数々の名勝負をしたであろうその岩は、何時の間にか釣れぬ岩に変わってしまったのであろうか。江戸時代に書かれた庄内の釣りの歴史書と云える「垂釣筌」を著いた陶山七平儀信(18041872)により、初代釣りの名人としてその名が残る岩の特定が自分にとって長年の夢見たいなものであった。

 偶々何時の頃の作かは分からないものの、昭和18年正月に花岡氏と云う人物が、「荘内沿岸釣り場絵図」を書き写した貴重な写本を加茂の水族館の館長より貸して頂いた。又その時に昭和13年発行の山内善作著と称し、菅原釣具店より販売された自湯野浜至加茂「釣岩図面」も同時に貸して頂いた。後者の種本は、陶山七平儀信により加茂より由良に及ぶ「釣岩図解」である事は云うまでも無い。この貴重な二冊のコピーを持って現場に出かけた。

 以前一度下見をしていた事があったので大体の場所は案外早く分かったのだが、多くの岩の中で果たして権太岩がどれなのかが見分けがつかない。それに60年ほど以前に書かれた図面であるから、岩の形が多少変っていると云う事もある。取り合えず近くの小高い岡の上にある鶴岡石切神社に登って見る。図面で見ると当時はまだ現在の位置の北防波堤の姿は見られない。それで旧道の加茂山トンネルの前の屏風岩と思しき岩の特定に入る。旧道のトンネルの下、屏風岩の手前辺りに塵捨場と書いてあるものの、現在の道路に埋まってしまっていた。そこで権太岩と屏風岩の間の小さな入り江を目標に探す事にする。小さな入り江は神社の前付近の磯に右と左に二つあるが、右側の突き出た岩は其れらしくは無い。しばらく図面と睨めっこして思案した結果が、左の岩である。13年と18年に書かれた図面では岩の形や近くの小岩の数も大分変ってしまっていることもある。

 なるほど権太岩の場所は、前面は小岩が点在し沖が深くて荒波時に長竿を使えば如何にも大物が釣れそうな予感のする岩である。図面には権太岩の左手の小岩の手前から荒波時に三間半から四間くらいの長竿で黒黄(黒=黒鯛、黄=尺前後の黒鯛)と書いてあり、岩の真ん前を狙えば天口(ハジメ)が釣れたらしい。少し右手側の烏帽子岩では静波、中波時に三間以上の長竿で黒黄と書き込んである。権太岩の左手は多少高くなっており、多少の荒波が来ても釣が出来た岩のようだ。

 当日北西風が強く、肌寒かったので岩場には下りて見なかったが、来春の静波時には是非に海底の具合を見てみようと云う気になった。