第32話    「釣場絵図」の歴史 T   平成18年11月27日  

 平成18116日の午前中の事である。先月の始め加茂の水族館長にお借りした荘内沿岸釣場絵図釣岩図面と云う二つの貴重な釣の資料を、約一ヶ月かけてようやくすべてをスキャナーにてカラーコピーさせて頂いた。特に釣場絵図と書かれた写本は表紙から裏表紙までの約190ページに及ぶ大作である。写本の折り目や汚れ等を修正しつつ一ページ、一ページを出来るだけ原本に忠実にかつ綺麗にコピーをすると云う作業は大変に疲れる作業であった。しかし、これだけの貴重な資料に出会うチャンスは中々巡り合うものではなかった。和紙はいくら丈夫だとは云え、古いものであるから丁寧に扱わねばならぬ。長年に渡って使われていた関係で、多少黄ばみがあり所々に折り目や皺も少なからずある。それらを出来るだけ伸ばしたりしながらの作業で、結構根気の要る作業であった。

 館長の話に寄ればこの本は「余目町(現在の庄内町)の方が所蔵されていたものであった」と云う話である。ひょんなことからお預かりし、そのまま二十年以上も立ってしまったのだとのお話である。そして「その方は結構お年を召していたので、もうお亡くなりになっているかも知れない」との話である。

 以前から館長はこの「荘内沿岸釣場絵図」を写真に撮り大切に保管したいと思っていたと云う。その方がコピーよりも、より原本に近いものが出来るに違いない。出来ればその方がより綺麗で良いと思っていたが、生憎と自分にはその機材の持ち合わせがない。そこでスキャナーにかけて、すべてをPCに取り入れる事にした。それをCDに入れて館長に見て頂いた。そして館長から「綺麗に仕上がってますネ!」とお褒めの言葉を戴いた。

 「ああ〜!そうそう、もうひとつこれに似たものがある」と云い出すと、その資料を棚の奥の方から探して来られた。中を拝見すると昭和四十年代後半の白黒のコピー機でコピーされたものであった。冒頭に明治32年に鶴岡町新屋敷町(現在の鶴岡市若葉町〜新形町付近)「磯図」中村と記してある。その原本は中村一吉氏のご子息が持っておられたとの事であった。たまたま館長の釣狂ブリが、鶴岡市周辺ではあまりにも有名となっていたので、其れでわざわざ届けて下さったものと推測出来た。

 最初の数ページを拝見してると、どうも先に借りた「荘内沿岸釣場絵図」「磯図」は釣岩の大半が似ている事に気がついた。湯野浜から始まる釣岩の形、竿の位置、注釈などが見た目ほとんどが同じである。カラーと白黒の違いではっきりとはしないが、違う所等ほとんど見られないと云って良いほど程である。ただ「荘内沿岸釣場絵図」の方はカラーで緻密で更に釣岩の高低の変化迄が色の濃淡を使って良く画かれている。「磯図」の方は、残念な事に白黒のコピーなのではっきりとはしないが、多少雑なような感じあるぐらいだ。これが本物だったら、恐らく薄いカラーであり、もっと鮮明に見えたに違いない。大きな違いと云えば、「磯図」は、「荘内沿岸釣場絵図」の釣岩約180ヶ所と比べ約130ヶ所と少ない事である。かたや昭和18年正月の模写であり、もう一方の方は明治32年の模写である。

想像するに、誰かが現地調査して画いた原本があって、それに釣り人が借りた絵図に、各自が新しく釣り場を書き足して行ったものと思われる。それにしてもこの「荘内沿岸釣場絵図」の原本に近い物が、明治期に遡ろうとは、夢にも考えても見なかったから少々驚いた。尤も、この原本は文久3(1862)庄内藩元寺社奉行陶山槁木(1804〜明1872・陶山七平儀明の長男、陶山七平儀信)「垂釣筌」と云う本を書いているが、その数年前に現在の鶴岡市加茂より由良に至る名釣り場を「釣岩図解」と題して書いた絵図に行き着くのではないかと考えていた。残念ながらこの「釣岩図解」の原本は、陶山家より貸出しにより紛失し現在は残っていない。それでもその写本は多数残っていた事から、明治期にその写本が、手を加えられて一人歩きしているものと考えていた。

 ところが、
1111日に至り、鶴岡市の資料館でさらに興味深い事実が判明した。陶山槁木以前の絵図があったのである。大泉叢誌の中に黒谷市郎右衛門道寧と云う武士が、文化11年(1814年)坂尾宗吾の頼みで湯野浜より加茂までの釣岩をカラーで描いた釣場絵図が載せられているではないか?それは主な釣岩名と釣り方の説明が簡単に書かれているものである。そしてそれは鳥瞰図的に描かれたものであった。この図は間違いなく明治40年鶴岡町の十日町の大八木得吉発行の呉竹著「磯釣り案内」に繋がっていると思えるものだ。それも多少の誇張があるものの同じように鳥瞰図的に湯野浜から三瀬磯に至る大きく画かれた釣岩に、釣岩名と釣座と釣れる魚名が書き込まれたものである。その後に出たのが、山内善作著昭和13年菅原釣具店発行の「自湯野浜至加茂釣岩図面」である。大泉叢誌の黒谷と云う人物が書いた「釣場の絵図」や陶山槁木の「釣岩図解」等を参考にして釣岩一つ一つの絵を画いた釣場絵図が存在していたとは興味ある事実である。明治期に入り時代が下がるに従い著名な釣り人達や釣具屋等が、新たに現地調査を行なったりして各自の釣場の図の描き方を工夫したり、釣岩を順次書き加えたり、取捨選択を行った物であろう事は想像に難くない。更に鶴岡の資料館では明治42年に画かれた絵図を見せて貰う。これは磯図と大して変わらないものであった。五つからの資料で、その内四つは墨のみで画かれていたが、残りのひとつはきれいに色が塗られている。そしてその後、長谷川釣具店や荘内日報社から、湯野浜から鼠ヶ関まで網羅した釣岩の紹介の本が出されている。

 このような釣岩の絵図が、年代順にいくつも現在に残っていたとは大変嬉しい限りである。これなども庄内の釣史を考える上で新たなる発見と云える資料であった。この事実は約150200年前の幕末に作られた釣場絵図が、形を変えて現在にまで生き続けて来た事に他ならないのではないかと思っている。