第35話    「釣場絵図」の歴史 U   平成18年12月18日  

 ところがところがである、1111日に至り、鶴岡市の郷土資料館でさらに興味深い事実が判明した。陶山槁木の「釣岩図解」以前に別人が作った釣岩絵図が資料館にあったのである。なんと「大泉叢誌・絵図第二十巻下浜の図」(原図:致道博物館蔵)の中に黒谷市郎右衛門道寧と云う武士の手により、文化11年(1814年)鶴岡市湯野浜から加茂までのカラーで描かれた釣場絵図が載せられているではないか?それは主な釣岩名と釣り方の説明までが、丁寧に書かれているものであった。そしてそれは江戸時代の絵地図がそうであった様に鳥瞰図的に描かれたものであるが、実際の岩がより写実的に書いている。 


 そしてこの絵図は間違いなく明治40年鶴岡町の十日町の大八木得吉(大八木釣具店=庄内特有の真鍮パイプ継の竿の創始者)発行の呉竹著「磯釣り案内」の絵地図に繋がっていると思えるもの絵図であるのだ。それはそれと全く同じように鳥瞰図的に描かれ、湯野浜より三瀬磯に至るより大きく画かれた釣岩に、更に詳しく釣岩名と釣座と釣れる魚名等が書き込まれたものである。さらにその後に出たのが、山内善作著昭和13年菅原釣具店発行の「自湯野浜至加茂釣岩図面」である。これは昭和11年「余が体験した下磯の二歳釣に就いて」と云う本の中の後ろについていた物を再編集したものであった。こちらは現在見る地図」のような形で描かれた物に釣岩名と竿の出し方等が書き込まれたものである。「大泉叢誌」の中で黒谷と云う人物が書いた「下浜の図を参考にして釣岩一つ一つの絵を画いた釣場絵図が存在していたとは興味ある事実であった。明治期に入り時代が下がるに従い著名な釣り人達や釣具屋等が、新たに現地調査を行なったりして各自の釣場の図の描き方を工夫したり、釣岩を順次描き加えたり、取捨選択を行った絵図が存在していたであろう事は想像に難くない。更に鶴岡の郷土資料館では明治42年に毛筆により模写された画かれた絵図を見せて貰う。これは明治32年に模写された磯図と大して変わらりのないものであった。それは五つからの資料で、その内四つは墨のみで画かれていたが、残りのひとつはきれいに色が塗られている。そして昭和三十年代に入り入ってから、長谷川釣具店から三部作の釣岩紹介や荘内日報社から庄内名釣場として、湯野浜から鼠ヶ関まで網羅した釣岩の紹介の本が出されている。

 このような釣岩の絵図が、探せば年代順にいくつも出て来るであろう。それが現在に残っていて、この貴重な資料を発掘出来た事が大変嬉しい出来事であった。これなども庄内の釣史を考える上で新たなる大発見と云える資料であった。この事実は約150200年前の幕末に作られた釣場絵図が、形を変えて生き続けて来たひとつの歴史と云えるのではないだろうか。


(注)黒谷市郎右衛門道寧と云う人物が書いた文化11年(1814年)湯野浜より加茂までの釣場絵図(下浜の図=鶴岡市郷土資料館国分文書)が、文久二年に渋谷氏と云う武士の手により模写されたものがある。