第36話    大泉叢誌・絵図20巻下浜の図」   平成18年12月25日  

 坂尾宋吾(ソウゴ)・万年(ナガトシ)・清風(キヨカゼ)より三代に渡り大泉(広義的には平安の頃より庄内一帯を指す。また平安末期の後鳥羽上皇の荘園を大泉の荘と云う。)の地理・歴史等を編纂した「大泉叢誌」(原図:致道博物館蔵)と云う本がある。辞書に寄れば叢誌(そうし)とは、種々の事を集めた記録、雑誌(現代の雑誌とは異なる)の意である。その「大泉叢誌」絵図20巻・下浜の図の冒頭に文化11年黒谷の子俗称市郎、名を道寧は釣が上手であると書かれてある。よって坂尾宋吾が彼に下浜(湯野浜から加茂湊の間)の図を描いて貰ったと云う下りが書いてある。

 坂尾宋吾(17631851)と云う藩士は庄内人名辞典に寄れば、日向新兵衛の三男で坂尾家の養子となるとある。彼は槍術を良くし、寛政6年に免許皆伝、寛政11150石の家督を継いでいる。文化4年(1807)より同6年に元締役を命ぜられて、江戸に赴く。下向の際に七ヶ宿関にて、宿主惨殺事件を起こし仙台藩との間で紛争が起きた。その結果翌7年に家禄を没収、蟄居の身となるも文政元年(1818)に至り許される。早くより文芸に親しみ俳諧、謡曲を嗜み、古銭収集などの趣味があった。また、彼の蟄居中に大泉叢誌を書く為の大泉(庄内一帯の古称で古記録には大泉荘とある)の古い記録を収集し、後に子、孫三代に渡り作り上げられたのが、大作「大泉叢誌・全139巻」であった。

 下浜の図を描いた黒谷市郎右衛門道寧(17711845)は、藩士本多十右衛門の弟で、後に黒谷家の養子となり家督を継ぐ。文化2年(1805)から文政9年(1826)まで近習頭取に在職。槍術を長じ、詩文を良くしたと云われる。対鴎と号し鷹の絵を描いた。晩年に至り、書に没頭したと云う。ことに古銭の収集では有名で西の大関となっている

 坂尾宋吾が蟄居中に当時釣の名人と云われていた黒谷道寧が絵を画く事に目を付けて、下浜(下磯=湯野浜から加茂湊)に至る釣岩を混えた絵を描いて貰ったものが、「大泉叢誌」絵図第20巻・下浜の図である。当時から鷹の絵を画く事で有名であった黒谷市郎右衛門道寧であろうから、坂尾宋吾の頼みでその絵を描くのは造作も無い事であったであろうと思われる。



 上図が、大泉叢誌絵図下浜の図の序文と湯野浜から金沢の先辺りまでの絵図である。右端に旧湯野浜村(鶴岡市湯野浜)が画いてあり、その上に秀峰出羽富士鳥海山が描いてある。その左に微かに男鹿の嶋(男鹿半島)がある。和紙に薄い岩絵の具が、良くマッチし綺麗な絵に仕上がっている、磯図である。当時(1810年当時)の主な釣岩には、釣人が竿を持ち、糸を垂らしている姿があり、そして邪魔にならぬように小さな字で釣れる魚や岩の解説、危険等の簡単な説明が載せている。それが微妙に絵の中に溶け込んでいるのが、秀逸である。多少誇張された鳥瞰図的な絵であるが、その分岩の特徴を良く捉えており、流石に絵の素養のあった一角の人物と拝見した。

これで文久二年陶山槁木が、その著書「垂釣筌」に先立って書いたと云う、釣場絵図「釣岩図解」に上磯(加茂より由良まで)の釣岩を書いた謎が解けたような気がした。


 (注)35・36話を書くに当たっては郷土資料館の秋保良氏(「野合日記」で高名な秋保親友の御子孫で居られる)にご指導頂いた。