第42話    「名竿師 山内善作の著書 T」   平成19年02月05日  

 昨年の12月の末の頃、大正中期より昭和初期を代表する名竿師山内善作(1887〜1940)の貴重な著書を鶴岡の図書館にて発見した。その題名は「余の体験した下磯の二歳釣に就いて昭和11(1936)と云う自費出版本で親しい友に配ったものではないかと思われる(?)本である。彼は僅か53歳と云う若かさで亡くなった。ここで云う下磯とは庄内の釣人の間では半ば常識ではあるが、遠く江戸時代より加茂湊を境にして南を上磯、北を下磯と呼んでいる。その本は僅か37頁の小本ではあるが、しかしその内容は極めて濃いものである。その小本の付録の下磯の釣場図面・前図「釣場図面」と全く同じものが、昭和13(1938)に菅原釣具店から「自湯野浜至加茂釣岩図面」として売り出され、当時の釣り人に数多く出回っている。

 山内善作は明治20(1887)竿師山内作兵衛の長男として生まれた。幕末当時の名釣師であり、上磯の釣の解説書兼歴史書として「垂釣筌」なる本を書き著した陶山槁木の孫儀成(陶山家代々釣を趣味としている)の長女まさの長男である。そして槁木の弟陶山運平は庄内竿の完成者であった。そんな彼の環境は、天才竿師としてなるべくしてなったと云う環境でもあったのである。釣を趣味とし鶴岡町役場(後市役所)に勤務していたが、体調を崩し50歳前後の頃に職を辞している。若い頃から南は笹川流れから、北は象潟にかけての磯釣で大いに奮闘し名釣師として名を馳せていたが、その間庄内竿作りにも情熱を傾け、良い竿が出来ると陶山家の釣好きであった祖父儀成に竿を持って行っては、見て貰ったと云う逸話が残る。彼の竿作りは、格別で過去に名人と云われた人たちの竿を手本にし、その竿作りの技法を独学で学びとり、その造り方をそっくり真似て見せる事もあったと云う。ただ実際に釣をしていた事から、より実践的な竿を作ったと云う評価がある。残念な事にこの時代より、苦竹に竹質の変化が起こり、庄内竿に適した白竹(斑のない竹)が極端に減少して来た感がある。その為に竿に斑入りの竹(竹肌に斑が入ったもの=かつて根上釣具店の吾郎氏が竹の権威に問い合わせしたところウイルスの成せる物と聞いと云う⇒随想「庄内竿」)を使った結果、一部の庄内竿の愛好者から斑竹の善作と云う、有難くない汚名を貰った時期もある。それでも彼の竿は柔らかいと云われる斑入りの竿とは一線を画し、同じ斑竹であっても竹質はより白竹に近い細目の堅い苦竹を選び竿にしている事がひとつの特徴となっている。その為に、後世の釣り人からは、「流石善作の竿だ!」と云う評価に変わって来ている。

 以前黒鯛釣に没頭していた彼が、その晩年体力を崩してからは、比較的近場での二歳(2~3年物の黒鯛の子)、黄鯛(尺から40cm位の黒鯛)を中心とした比較的小物を対象とする釣に変わって行ったのは当然の帰結であったと思われる。その著書「余の体験した下磯の二歳釣に就いて」と云う本を書いているのは、亡くなる数年前の事である。その本の中で彼の二歳釣に対する鋭い観察力の一端を窺い知る事が出来る。

 彼は「如何に名手が秘術を尽くしても魚のいない所で、撒き餌で呼んでも来る筈の無いところでは、魚を釣る事は出来ない」とその本の中で述べている。「釣れる岩で釣る」とは当たり前のことであるが、凡庸の我々釣師は、現実にそれが中々出来ないで釣れないであろう釣り場を右往左往しているものである。その年の海底の状況、その日の天候そして潮を見分けて釣れる釣り場を定めてこそ、釣ってこそ庄内磯では一人前の釣師と云えた。またその当時の習慣として、自分の釣り場を弟子以外には決して公開はしなかったのであるが、その釣り場の特徴、天候、潮から彼独自に会得した術=釣り方のすべてを本に書き記している。釣の本でこんなに、微に入り細に入り、自分のノウハウをすべてを公開している本は中々少ない。湯野浜・加茂間は僅か数キロの磯場であるから、鶴岡辺りの多少釣を心得た人達は、付録のその図面を見れば大体どの岩なのかが、すぐに分かるようになっている。それに親切な事に釣岩の竿出し場所までが、描かれているから後は、天候と運次第と云う訳である。まるで自分が、数年後に亡くなる事が分かっていて書いていたとしか思えないような本でもある。下磯の釣は、数代前の先祖陶山槁木が幕末に上磯の釣場絵図(釣岩絵図)と解説書(垂釣筌)を書いた北側の磯であるから、正に合わせれば一対の本(湯野浜から由良まで上と下)となるものを書いた事にもなる。それはあたかも自分が名門陶山家の子孫であると同時に「釣師善作」ここに在りと云う誇りがその本を書かせたからに相違ないと感じた一冊の本であった。

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山内善作の著書「余の体験した下磯の二歳釣に就いて」の画像は鶴岡資料館のご好意によるものです