第46話    「名竿師 山内善作の著書 X」   平成19年03月05日  

     (副題:浜釣り)
 昭和63(1990)につり人社から」発行された「近未来釣法・渚のクロダイ釣り」を見ると温海町(現在鶴岡市温海)の秦義彦氏が、開発された釣り方であるとされている。この方は若い頃千葉の小湊海岸で、メートルを割るような浜の浅瀬を陸に向いて泳ぐ黒鯛を見た事をヒントにしたと書いている。故郷温海町に帰ってから浜の浅瀬で同様な光景を黙認した。それでこのクロダイを何とか釣ろうと昭和40年ごろから試行錯誤を重ねやっと物に出来たのが、昭和50年に入った頃であったと書いている。が、本来の浜釣りが、釣り人社のインパクトのある名前をと云う事から、渚釣りの名前に変わってしまったと云う経緯がある。

 この浜釣り(渚釣り)をなんとか文献で実証出来ないものかとかねがね考えていた。しかし、昨年末それをとうとう山内善作の著書の中に見付ける事が出来たのである。この浜釣りなるものは、湯野浜の南の浜の辺りで当地の釣士達がかなり昔から行っていたと云う事実があるのだが、果たしてそれが何時頃から行われていたと云うことははっきりとは分かっていなかったのである。ただし、このクロダイ釣りは磯で釣っていた正統派の釣士から見れば、邪道の釣であった。一人前の釣師になる為の練習の釣りのひとつでしかない。初心者、中級者たちが磯と違い根掛りのない浜で、クロダイを釣って柔軟な竿捌き(さばき)を覚える為の練習の釣りであったのである。浜で釣ったクロダイは、磯で釣ったクロダイと比較して数段格が落ちるとされていた時代である。

「獲った魚は一尺三寸(39p)の男黒鯛、旅館の貸し竿で二間半位に六ヒロ位の道糸に、一分柄のテグス(10)、七分の鉤に餌はアサリ貝。波は相当に高い。肌着一枚に猿股、膝上まで波に打たれて、竿は波打ち際と稍(やや)並行位に竿先を六尺位に上げて少し横向きに身体を構えた。汐はきは沖に向かって非常に速い。即ち竿と具と稍直角の形である。魚が当たったと感ずくや、五、六歩すばやく海中に走りで、竿を斜め右上後方に取ったのである。十分余裕を取ったが、魚の再度の引き込みで竿は伸されそうになった。そこでなお、二、三歩前に出たが、白波のしぶきが顔面を遠慮なくかかる。実にすごい有様である。
 浜辺に立って釣っていた余等二人の釣手は固唾を呑んで見つめて居たが、彼一進一体の秘術の限りを尽して戦う中に魚は次第に力衰えて遂に[甚次郎澗]の砂浜に引きづり上げられたのである」


 この一文は善作の「竿の操縦について」の中に出てくる魚に対して先手必勝と云う解説に使われた湯野浜海岸(甚次郎澗=赤岩~塩越当たりか?)での浜釣りの光景の描写である。その人は湯野浜在住の血気盛りな釣人で、後に一流の釣士と云われた池田市太郎氏であった。しかし山内善作この釣りを冒険的な釣りと批評している。たまたま本に書かれる以前にこの釣りを眺めていた事から、クロダイ釣りは必ず先手を取らなければならないと云う彼の釣の解説の為に書かれたものであった。この本は昭和11(1936)の著作であることから、浜釣りは少なくともそれ以前に遡る事は間違いのない事実である。

 まだ、浜釣りなるものを知らなかった昭和46年の頃、当地の高砂海岸で自分もこれに近い釣りを何度か経験している。その一度目は晩秋の芋煮会のことであった。その日は北風強く、多少波が出ていた。まだ北港開発以前の話である。芋煮が出来るまでの間、その荒れた海に長竿で餌を放り込む。何度か繰り返していると、クロダイ特有の当たりがあった。釣れて来たのは尺に満たない浜特有の魚体のきれいなクロダイである。波があったものの魚は容易く浜に上げることが出来た。腸を取り海水で洗って、焚き火にかざし美味しく頂いた。以前から浜に篠子鯛(クロダイの当歳魚)が沢山居ついているのを見たことがある。そんな事から浅い浜であっても、状況によってはクロダイの成魚が釣れる事もあるのだと云う記憶しか残っていない。その釣りは非常に危険が伴う釣りである。突然の大波に浚われる危険性を伴う。当時はそんな事をしなくとも、尺クラスのクロダイならいくらでも簡単に釣る事が出来た。自分の釣り人生は凡人の釣りである。だからその釣り方の奥深くまで探求しようとは思っても見なかったのである。


                (注)「余の体験した下磯の二歳釣に就いてより抜粋