第47話    「富山釣具の小継の庄内竿」   平成19年03月12日  

 庄内竿の普及品を少ない小遣いで自分が買えるようになったのは、昭和の30年に入った頃である。当時酒田の中心街である中町の真ん中を東西に分断する形で、比較的幅の広い道があった。この道路は戦後闇市の小店が真ん中を占拠し、通称柳小路と云う道である。これは江戸時代に何度かの酒田大火があって、その都度、酒田の街がほぼ全焼し為に火を東西に分断しようと当時としては道を大きくとって真ん中に小さな川を作り、その川岸に柳の木を植えていた事に由来する。その柳小路の通りに、明治から続く老舗黒石釣具店をはさみ200m 北側に富山釣具店、150mほど南に加藤釣具店の三軒の釣具屋さんがあった。老舗の黒石釣具店はその当時東北随一の売り上げを誇り問屋さんも一目置くような釣具店であった。竹竿を作る職人を常時何人か抱えているような大きな店でもあった。残りの二軒は戦後(昭和20年の中以降)に出来た比較的新しい釣具店である。三軒の釣具店共に庄内竿を作っていたが、その作りにすべて特徴があった。加藤釣具店は戦時中徴用されて海軍の山形造船で船大工をしており、その竿作りは頑丈でいくらか太目であったような気がする。それに対して富山釣具店は堅目で細身の竿を数多く作っていた。老舗の黒石釣具店はと云うと職人さんが多く居たことから、色々なバリエーションの竿があったような記憶が残る。ことに先々代の親父(二代目で暁波と号す。三代目も暁波を名乗る)の作った竿に、良竿が残っていると云われている。

一昨日久しぶりに富山釣具店を覗いて見た。ご主人はもうとうに亡くなりそれから早十数年経っている。釣具屋の跡を継いだ長男は現在北港の七号線沿いに新たに店を作りそちらの経営に当たっているのだが、未亡人は未だ元気で中町店をひとりで亡き夫と築いた思い出の店を守っている。昭和23年にここに嫁いで来てから、かれこれ60年近くになると云う。今まで気づかなかったが、良く見ると右側の奥の棚の片隅に昔主人が作ったと云う庄内竿では珍しい小継ぎの庄内竿が隠れるようにしてひょいと置かれている。二間二尺(4.2m)と三間(5.4m)のその竿は珍しい事に六本継ぎである。この長さの通常の庄内竿ではすべて三本継であり、これ以上長い竿になると稀に四本継ぎになるのが当たり前であるから相当に珍しい。ただ、庄内竿の小継は柔軟に曲がるニガダケの特徴が余り出て来ないと思われる。多分このような竿を作ったのは、暇な時に遊び心で作ったものに違いないと推察した。

 六本継ぎと云う相当に珍しいそのゴボウ根の庄内竿を手に取って見ると真鍮パイプの継と継ぎの間が非常に近い為に多少太目のガッチリとした竹で作られている。普通これぐらいの長さの継ぎ竿は、元竿側の長さは1.51.8mであるのが常識であるのだが、竿の長さが70~85m余でほぼ均一に切られている。やや飴色に変色したその竿の竹質は結構堅そうにも見える。芽取りは良く切れる小刀できれいに削り取られており、その切った竹肌はスベスベである。余りにも見事な削りなので「ご主人は木賊ガケをしていたのですか?」と質問したが、奥さんは「何十年見ていたが、そんな事は一切していなかった!」と云う。そう云えば酒田の竿作りでは、鶴岡の竿師と違い木賊がけをする人は殆んど見かけなかった。そして一本一本を丁寧に見ると、長年手入れがなされていなかった為に、竿に多少の狂いが生じている。そしてもう一本の竿はビニールの袋に入っており、空気の流通がなかったせいで、少しカビが生えかけている。奥さんに竿を「胡桃の油で拭くとか、少し暖めて和蝋(植物性の蝋)を塗ってやるとか早急に手入れした方が良いのではないでしょうか?」と話をする。「主人の大切な遺品で自分は飾りの積もりで置いているので、竿など見る人も居ないでしょうが早速その様にしたい」と云われた。

 年を取って来ると帰郷してから実用一点張りでグラスやカーボン製の竿に走ったが、最近何故かこのような庄内竿を見る度に昔使っていた竹竿に対しての愛着を感じるようになって来ている。確かに毎年の竿の手入れ等面倒な事はある。しかし、今年こそは竹竿をより以上に、数多く使って見ようと考えている。釣竿は鑑賞する為のものではなく、竿は使って何ぼの世界であると思えるようになって来た。いくら高価な竹竿を持っていても、使わず、棚に飾っているだけでは一文の価値もない。