第49話    「最古の間接法の魚拓は紅鯛」   平成19年04月02日
  

 日本最古の直接法の摺形(魚拓)が、江戸時代から磯釣りが盛んに行われていた庄内から発見された。ただし、その最古の魚拓は残念ながら磯で釣られたものではなく庄内藩の若殿が江戸で釣った鮒であった。しかし、最古の魚拓の間接法もここ庄内から発見されていたとは、自分にとって驚愕の事実である。その魚拓は紅鯛(アカダイ=真鯛)であるが、決して上手に摺れているとは思えぬ一枚の魚拓である。

 随分昔の話であるが、鶴岡の名竿師山内善作の弟子となって竿つくりを学び釣具屋を営みその後、本間家の当主から乞われて実業家に転進した本間裕介(故人)氏が居る。その本間裕介氏が酒田の本間美術館の館長であった頃、失われ往く庄内の釣文化を後世に残すべく釣関係のコレクションを精力的に収集していた。そのコレクションのひとつに「氏家直綱(弘化2年1845〜明治441911)鯛鱸摺形巻(たい・すずき・すりかたまき=庄内で現存する4番目に古い魚拓の巻物(15mある)がある。これは直綱が満十七歳の文久2(1862)から慶応3年(1867)にかけて、主に庄内磯で釣り上げた魚33枚を摺形(魚拓)にしたものであり、庄内を代表する第一級の資料のひとつである。

 庄内藩は文久3年清川八郎暗殺に伴い手薄となった江戸市中見回りの役を仰せつかり、急遽藩士の子弟が召集され江戸詰の役に就いていた。その子弟の中に当時十八歳の直綱が居た。巻頭を飾っているのが、非番の時に釣ったのであろうか仙台河岸(現在の汐留辺り)で釣った一尺一寸八分の剛鯛(当地では黄鯛=コウダイとも云い、中型の黒鯛の事)である。その次にあるのが、問題の一尺一寸五分の紅鯛(あかだい=赤鯛とも書かれている事があるが、共に真鯛の事で、小さいものを小鯛若しくは鯛子と呼ぶ)である。自分はその魚拓を写真でしか見た事はなかった。それを始めて見た時釣を嗜んでいた藩士氏家直綱の魚拓にしては、薄墨を用いたやけに下手糞な摺形(魚拓)であると云う事でそんなにはっきりと印象に残るものではなかった。その為特に注目して居なかった魚拓である。ただ「魚の鱗が妙にはっきりと出ている」と感じつつも、自分にすれば形も一尺一寸五分の大きさであり、さして大きいとも思えず特に注目に値するものでもない魚拓あったから当然の成り行きである。とにかく実物を一度も見た事が無いのだからしょうがない。それが、色々調べて行く内に、それが日本最古の間接法の魚拓であったとは驚愕に変わって行ったのである。

 今日のような間接法の魚拓が作られるようになったのは昭和の始めの頃に色々研究され、大体現在行われている技法が開発されるようになったと云う事である。鯛鱸摺形巻の現物を一度何とかして見て見たいものと思っていたが、先日本間美術館の田中館長にお願いしたら快くお引き受けいただいた。待ちきれなくて2時の約束を若干早目に、美術館に到着した。そして丁重に館長室に案内された。それは机の上に置かれていた。鯛鱸摺形巻は錦の布で立派に表装された巻物一巻であった。

 その魚拓巻頭にあるのは、見覚えのある文久三年江戸の仙台河岸で釣った剛鯛(黒鯛)一尺一寸八分である。次の魚拓が、問題の最古の間接法と云われる文久二年八月(旧暦)下磯の金沢部落の前の大中島で釣った紅鯛(赤鯛=真鯛)一尺一寸五分である。同伴者は、前九年の役で滅亡したち伝えられる安倍氏の子孫安倍親善であった。「安倍親善救之」とあるから、釣り上げるのを助けて貰ったものと考えられる。この時直綱は若干17歳の若者である。墨一色で塗られた間接法のその魚拓は、直接法でとられた他の魚拓と比較すると魚体が相当に貧弱に見える。

最後尾の一枚は、慶応三年旧暦八月八日夜に上磯の油戸磯で釣り上げた同じく紅鯛である。これには、大きさの表示はないが、やはり一尺以上はあるやに見える。この魚拓のみ、何故か墨ではなく朱で取られた間接法の魚拓である。この時代、直接法が主流であった筈であるが、間接法の技法も存在していたのである。拓本を趣味とする武士たちが、居てもおかしくはなかったから、その技法を魚拓に取り入れたとしても、少しも不思議ではない。調べて行くと当時の間接法の技法とはなんでも糊を塗った魚の上に和紙を乗せて、さらに紙の上から墨を載せて行くと云うものであると云われている。当然今日に見るような芸術的な魚拓とは違い稚拙であるが、釣った魚を記録に取ると云う意味での魚拓であるから仕方の無いところである。どちらにしても釣の盛んであった庄内藩から、直接法、間接法の両者の魚拓が見つかった事は庄内の釣り人にとって誇らしい事のひとつである事には間違いない。




* 氏家直綱の鯛鱸摺形巻の画像は本間美術館館長のご好意によるものです。