第55話    「独り善がりの身勝手な釣り人」   平成19年09月025日  

 今も昔も独り善がりの身勝手な釣り人が、如何に多い事か?
得てしてそんな人に限って他人に平気であら探し、誹謗中傷の攻撃を加える。それでいて自分の欠点には気づいていない。そんな事をするから、他の釣り人に嫌われたり、嫌がられたり、又嘲笑の的にされているのだが、その事を全く知らずにいる。なにせ自分だけが正しい事をやっていると思い上がっているのだから、とても始末が悪い。一般に人間は人には辛く、自分には甘いものだが、それでも限度があろうと云うものだ。

 大抵釣り人は自分の釣り方やマナー関して、自分は完全だとも思っている。だが、他人から見るとそれはまだまだ甘いと見られている事が多い。釣りと云うものはある意味個人競技である。が、しかし同時に釣り場には、数人の釣り人が入っている事もあり、決して一人だけの釣りではなく、お互い遠慮したり、譲り合ったり、ある時は競いあったりする団体競技に近い物となる。楽しいから釣りをする。しかし釣りは、個人だけが楽しめば良いと云うものではない。いくら個人競技見たいな物と云えども、見渡せば直ぐ近くに人がいる。その場合、一緒に楽しまねばならないと云うのも釣りである。一緒に釣りを楽しむ為には、いくら釣り上手と云えども、遠慮とか譲り合いが必要だ。一人一人の釣り人に品格やマナーが求められる。ところが品格どころか、それ以前のマナーに掛けている釣り人等は、釣りをする資格などないと云って良い。ところが釣りをしている本人は、一人前どころか、名人クラスとでも思っている。

 市内のN釣具屋さんが良く云っている言葉である。「魚だって生を与えられている生き物(いきもの)なんだから、いくら餌取の外道が釣れたからと云って殺さず、出来るだけ生かして放流して欲しい!」と。例えば黒鯛釣りで良く釣れる外道はボラ、フグ、コアジ、マルタ、ナナキリ(タカバ、石鯛の幼魚)、シノコダイ(黒鯛の幼魚)にチャリコ(真鯛の幼魚)等々・・・・。それらの魚が釣れると大抵の釣り人は、足元にポイと捨てる者が少なからずいる。小さい魚はかもめやカラスが来て掃除をしてくれるが、大きなボラやマルタ等は防波堤などでそのまま腐っている事が多い。後から来る釣り人にとっては、迷惑な事この上ない。

 口では人並み以上に釣りの理論めいたことをひけらかし上手い事を云っている人でも、得てしてそんな行為を平気で行っている釣り人が少なくない。食べて美味しい魚は、家に持って帰るが、ところが美味しくない魚や食べられない魚は釣り人の身勝手でポイ捨てとてしまう。生き物は自分で生まれたくて生まれて来た物ではない。生を受けた以上、生きる事は人間でも魚でも皆平等である。庄内ではその昔、あえて釣りを釣りと云わずに殺生と云っていた時代がある。そして魚を釣った時、今日は何頭屠った(ほふった)と云った。本来武士が戦場に出て人を殺めること即ち殺す事を指して殺生すると云ったのであった。庄内藩では釣りを遠足とも云い、足腰を鍛える為の軍事教練の一つとしていた。武士たちは釣り人が釣り場を戦場に見立て、魚を釣って楽しむ行為そのものを合戦時の殺し合いになぞらえて、殺生と云ったのである。

 人は殺生して釣りを楽しむからには、出来るだけ数を少なくして、もしくは食べる分だけの殺生をして欲しいものだ。そして殺生したからには、美味しく頂いて欲しい。それがせめてもの弱者魚へ対するせめてもの供養である。それを足元に無残に打ち捨てたり、足で蹴飛ばす様な行為は、釣り人としての資格はないに等しい。釣り人としてマナー以前の問題しか云いようがない。「釣り場はきれいに!持ち帰らない魚は生かしてリリースしよう」は、釣り人として最低限のマナーである。鉤かがりした魚から無理矢理鉤を外し、殺してから捨てる事もマナー違反の行為だ。こんな時持ち帰らぬ魚は、ハリスを切ってでもリリースしたいものだ。そうすれば鉤は、いずれ自然に鰓から取れて自然に帰る。実験でその実績がある。

 釣り場は個人のものではない。皆の釣り場である。人がいれば当然周りの人にも気遣っての釣りをやらなければならない。ところが自分だけの釣り場気取りの者がいる。「自分が釣れれば良い!」、「人を押しのけても自分だけが釣りたい!」と云う抜け駆け的な釣り人が、少なからずいる事も非常に残念だ。

 確かに釣りは実質個人競技見たいな物であるが、近くに釣り人がいればその場で団体競技に変わって来る。独り善がりの個人プレーが得てして他人の顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうことも多々ある。それでいて自分では全くそれを気づいていないと云う事は、不幸な釣り人である。「皆で釣りして、皆で楽しむ!」これも釣りである。一人が気に入らない釣りをすれば、皆が面白くない釣りになってしまう。