第56話    「鯛で草餅が釣れた」   平成19年10月05日  

 9月の中頃鶴岡市の小物釣りのお爺さんに出会うようになった。8月末の頃から決まって、夕方の三時を少し回った頃に15キロほど南に位置する善宝寺と云う所から来ては、コアジ釣りに興ずる70歳を少し過ぎたばかりの老人に自己流のダンゴ釣りを教えていた。自分は二、三歳ものの黒鯛は、殆ど家には持ち帰らない。しかし、軟らかい竿で数が釣れるので釣って楽しむには結構面白い釣だ。この二歳釣りは、かなり昔から庄内の秋の風物詩となっている釣である。

 その釣り人は最近でこそコアジ釣専門だが、秋磯のフカセ釣りでは二、三歳物を釣って楽しんでいたと云うから、彼の腕はそんなに悪い物ではない。加茂磯では数は一日でも56枚釣れれば大漁でそれ以上は釣った為しがないと云う。ダンゴ釣りを覚えてからと云うもの、週に三、四度来るようになっていた。最初の二、三度は、やっと4〜5枚程度であったが、その後食いが良ければ10枚くらいはコンスタントに釣るようになった。隣で釣る時は、大抵釣果の全てを差し上げる様にしている。そんな彼は家に帰って奥さんにこれだけ釣ったと自慢出来ると喜ぶ人であったから、差し上げ甲斐があろうと云うものだ。

 ある日その善宝寺の釣り人が来なかった時から、善宝寺の釣り人と何時も一緒に釣りしていたお爺さんに釣上げた二、三歳ものを差し上げるようになった。たまたまその老人の隣で釣っていた時、秋も深くなればまだ磯釣りの現役とやっていて磯場に出る事も有ると云う話を聞いた。最近の自分は歩くのが嫌になって来て、車から降りてせいぜい1、2分の場所で釣りをしている。そんな若年寄りの釣が、恥ずかしくなって来たのであった。僅か歩いて3040分ほどの距離でさえ荷物を持って釣りする事など、年に12度もあるかないかである。

 聞けば未だにかなり重い五間の長さの改造中通し竿を三本も持っていると云う。主に庄内の黒鯛釣りのメッカ四ツ島や遠くは男鹿半島、佐渡ケ島の釣りに使った物であると云う。そんな年季の入った釣り人の自慢話は、聞いていても中々面白い。最近も真鯛と勝負して胴が折れたと云う竿を見せて貰った。それは三間の並継ぎのヘラ竿を中通し竿に改造したもので、結構高価な良い竿であった。もうとっくに廃盤商品になっており残念ながら部品の取り寄せは不可能であったと云う。しかし二、三歳の小物だったら釣れても折れないように自分でしっかりと細い補修糸を巻いて、その上に接着剤を塗り何とか使えるようにしていた。

 今の若い人だったら当に捨ててしまう竿であるが、そこは戦時中の物の無い時代を経験して来た人であるから、物を大切にする気構えが読み取れる。何とか工夫して使えるものは、大事にしたいと云う心構えが感じ取れた。その他の竿も買った当時は結構な価格のものばかりだ。そんな老人は良い物をじっくりと使う人物と見てとれた。それに引き換え同じような竿ならば、欠点をばある程度目をつむり、ついつい安物を買ってしまう自分とは対照的である。

 家に持って帰らぬ二、三歳物を差し上げるようになってから、四、五回も経った頃「自分の家は鶴岡の端の方で餅を売っているので・・・!」と云って大層美味しい粒アンを一杯に塗った草餅を頂いた。どの道近くで釣っている食べる人に差し上げるか、リリースする二、三歳物であるので物を貰いたいが為に釣った魚ではないのだったが・・・・。得てして鶴岡の人達は、特に秋のシノコダイは勿論二、三才ものを食する事に掛けては酒田の人達よりも嬉しがるようだ。磯で釣った魚を食べると云う長年の食の習慣が根付いている土地柄であるからなのであろうか。この釣り人、大層貴重な品を貰ったかのように嬉しげに昨日は貰った黒鯛をどうして食べたとか、一々報告するのである。そんなこんなで差し上げた甲斐があったと云う物だ。

 大変恐縮して、又差し上げるようになる。そして今度は栃の実で作ったと云う、店で売っている特製の羊羹を頂いた。この栃の実は最近採る人が少なく、その上灰汁(あく)ダシが大変で貴重な果実のひとつである。どうせ持ち帰らぬ鯛が、餅になって更に何になるのだろうか。正に棚からアンコが一杯のボタ餅になったと云う次第である。人に良くすれば、自分にも帰って来ると云う出来事であった。