第62話    「河北の竹薮・興休」   平成19年12月05日  

 興休と聞けば少しでも庄内竿を使った事のある釣師であれば、大抵直ぐに「嗚呼、あそこか!」と分るほどの有名な竹藪の一つである。そんな興休(おこやすみ・現酒田市米島)の部落は、通称観音寺街道の北酒田市若王子を流れる日向川の対岸にある。この辺りはその昔鶴岡の武士達から、河北(カワキタ・古来飽海=アクミと云い最上川から北側の意)と呼ばれていた地域の一つである。庄内では川の氾濫から土堤の決壊を防ぐ為に、良く無数の苦竹やヤダケ等が要所々に植えられている。竹はしっかりと大地に根を張るから土堤の補強になる。特に川筋が多少曲がりくねっているこの場所は、その昔からかなり大きな苦竹の竹藪があった。竹は現在でこそあまり使われていないが、昔は農作業に多く使われていた貴重な資材であった。

  海岸から数キロ離れた潮風の少ない本楯付近の苦竹の質は、竿にするに最も良いと云う評価がある。当時そんな科学的根拠等を知る由はなかったが、竿師たちは長年の竿作りの経験の中で自然とこの付近の竹の性質が竿を作ることが適する事を知っていた。そんな理由から数多くの竿師たちが、河北の本楯付近の竹を採取するために遠路はるばる良竿を求め採取に来たものである。鶴岡城下からは、現在の国道を使っても、約40キロ、酒田からは約10キロの距離があり、そんな道程を大抵一泊二日の日程で酒田湊を経由し、未舗装の道をわざわざ徒歩で竹を採りに来ていたのである。竹の採取した数が多ければ、ので、盛んだった赤川の舟運(当時赤川は最上川に直接流れ込んでおり、酒田湊に水揚げされた荷物は船で鶴岡の城下に運んだ)を使い鶴岡まで運んだものと考えられる。現在では車を使えばたった40~50分程の距離であるが、明治、大正時代までの頃は、舗装等されておらず徒歩が主であっとたら遠い道程であった。明治期の名竿師上林義勝等もこの酒田から赤川の舟運を使って、一月かけて多くの竹を鶴岡に運んでいたと云う話を聞いた事がある。

 部落の南側を流れる日向川の土堤の直ぐ下には、今では随分と小さくなってしまった竹藪が存在する。それでも現在残っている竹藪の中では、大きい部類に入る。竹藪に目を凝らして良く見ると竿に出来そうな良い竹が、多少ではあるが残っているのが分かる。庄内の苦竹の竹藪の殆どは、河川改修や畑にする為の整地で刈り取られ大きな竹藪はまず残っていない。この竹藪も、以前は相当に大きなものであったようだ。土地の古老に聞くと土堤下から川岸に掛けて幅50~60m長さ300400mにも及ぶ広い地域に苦竹が繁茂していたものだと云う。

 平地には三間半(5.4m)の竹が、土堤には二間半(4.5m)の多くの竹が繁茂していた。それがここ30~40年の間に護岸工事の為と平地の真ん中の一番良い竹の場所が畑となり、分断され、お世辞にも大きな竹藪とは云えぬ状態となってしまった。明治期には、かの有名な竿師上林義勝が、そして昭和の名人山内善作等がこの辺りを訪れて、数多くの名竿を作られたと云われている場所だ。その後それ故にこの竹藪は有名となり、酒田や鶴岡の名のある竿師たちや釣具店が、この竹藪から数多くの苦竿を刈り取って行ったのである。

 土堤の上から竹藪を、眺めていると平地の大きな竹藪に竿師たちが名竿を得ようと分け入り、盛んに竹を採取している姿が容易に想像出来る。現在では土堤付近に竿に出来る二間一、二尺の背の小さな竹はあるものの、それ以上の長い竹はまず少ない。真ん中の畑の先の川岸に近い竹藪には、竿に出来るような竹は殆んど存在していないのが実情だ。そしてこの竹藪の全体的な特徴は竿に出来る竹は残っているが、ウラ(穂先)にするような竹は、全くと云って良いほど存在しない。

 土堤の竹藪に入って見ると誰かが、竿竹にする竹を採ろうとして目印を付けていた物が三本ほど見つかる。それらはすべて今年で三年古以上となる良い竹である。誰かが昨年来て二年古の中に、竿にする為に印をつけたものであろうと思われる。竹の質は素人ながら見てもはっきりと良い竹である事が見て取れる。かなりの熟練した人物ではない。

 最近竹竿を使う人が減っている。と同時に竹竿を作る人が減った。軽いカーボン竿に切り替えている人が多いからだ。しかし、「魚は自然素材の竹で釣った方が面白い!」と誰もが云う。しかし「竹竿は高いし、重いからなぁ!」とも云う。現在では竹竿を求めようにも売ってもいない。現在では鶴岡にTと云う釣具屋がたった一軒だけ、庄内竿を自分で作り販売している。しかし、ここではまずまずの二間半の竿が、桐の箱に入って二十五万(?)であり、残念ながらこの価格では地元で買う人はまずいない。手に多少なりとも自信のある人は、自分で作った方が良い