第63話    「名竿・興休善作」   平成19年12月15日  

 昭和の名人山内善作が作った庄内竿の中に輿休と名付けられた竿が二本存在するとある。随想「庄内竿」に、一本は本間美術館(二間二尺のノベ竿)の所蔵品にあり、あと一本は根上釣具店経営・故根上悟郎氏(二間五尺のノベ竿)が持っていると記されている。以前酒田の資料館の展示会で見た事がある。その竿はすんなりと細身で適度に硬く竿の出来栄えは中々のものであったという記憶がある。又故根上悟郎氏所蔵品の輿休は、二十年ほど前に、自宅の近所に作った庄内竿会館で拝見したが、これまた細身の素晴らしく良い竿であった。通常善作の釣竿に善乍の銘が彫ってある。それ以外の銘、特に土地の銘が入っているのは、非常に珍しくそんなに多くは存在しない。根上悟郎氏の調べに寄れば輿休、青山、覚巖寺の三種だけではないかと云う。

 今夏本間美術館の所蔵品の展示で見た山内善作の五本竿の中には、その二間二尺の庄内竿にはなかった。展示されたのは右から鱸竿三間五尺(昭和7)3間半(昭和7年製)と黄鯛竿二間五尺九寸(昭和7年製)、二間半(昭和5年、昭和11年製)の計五本が展示された。ついで無名の竿一本に明治の名人上林義勝のシノコダイ竿などの小物釣り用の三本があった。その中で自分が取り分け目注目したのは右から五本目の極めて細身の二間半の竿である。だからと云ってそのすぐ右にある二間半にしても、細身の良い竿で、出来栄えから見ても決して見劣りする竿ではないが、細身の飴色に光るその竿は正に善作の輿休と名付けられた竿に近いものではなかったか、思える良竿であった。

かねてから、そんな多くの名竹の出たと云われている興休の部落の竹藪に行って見たいものだと思っていたのだが、中々その機会に恵まれなかった。今年の10月末に享年97歳で父が亡くなった。そんな事で、その後喪が明けぬ内は釣りを行なう訳にもいかず、時間があり余った。そこで自分が知っている良いウラが生えている三ヶ所の竹藪から、今年は約100本近く採って来た。過去に採って来たウラ(穂先)を含めると、もうかれこれ200本近くもなるが、しかし良い竿を作るためには、もっともっと多くのウラを集めなければならない。


 名竿師上林義勝は手持ちのウラの一万本以上の中からでも竿にする為の気に入った竹にたった一本のウラ(穂先)が見つからなかったと云う逸話が残っている。「ウラを捜して二十年経ったが、未だ見つからぬ!」と親しい友人にこぼしたまま亡くなった。それを昭和の天才山内善作が勿体ないと云い、自分の手持ちのウラから選びに選び抜いてウラを継ぎ、見事名竿に仕上げたと云う逸話がある。「ステッキでも、良いウラがあれば、良い竿が出来る」と義勝は云ったそうだが、竿のウラ選びには特に名人と云われた人物は、大変厳しかったようである。実際ウラと云うものは、中々簡単にはぴったりと合わせられるものではない。其処へ行くと自分等素人竿師は、竿の調子を見て適当な処で妥協して継いでしまう。「どうせ、自分が使うのだから!」と結構良い加減に三年古の竿に無理多少の無理があっても、安易に継いでしまうのが実情である。

 昔、名竿師たちが訪れたと云われる興休の竹薮に来た記念にと思い、二間二本と二間一尺程の竹計三本を突き鍬を使って掘り採った。すべて細身の三年古の竹である。その中一本はかなり深い処で隣の竹にくっ付いており、それに掘り急いだ為、ついつい根を傷めてしまう。素人の悲しさである。それでも、自分で使う分には使えない訳でもないので、勿体ないとすべて持ち帰った。家に帰ってすべての竹を点検したところ、多少の斑が入っている竹であるが、しかし、素直な竹の相がある。勿体無い事に三本の内、特に気に入った一本は摺れの為に根から40cmの所で竹肌に傷が付き腐りかけている部分があった。採ることに夢中でそれに気づかなかったのはやはり素人は素人の竹取である。それ故いつまで経っても、名竿等作れそうにもない。興休善作のような細く斑が少なくてより長い竹を、もう一度探しに訪れたい場所だ。