第69話    伝説の昭和の名人・大場金太」   平成20年03月15日  
 昭和の鶴岡の釣りの名人を代表する者と云えば、権威ある一竿クラブの会長で市内のベテラン釣り師の多くから名人と慕われた大場金太氏(明治341901~昭和531978)以外にいないと云う。

 昭和53年に荘内日報社から発刊された「名釣り場第三集・技術編」(ベテランが公開する技法と穴場)を見ると鶴岡の各名人たちが異口同音に大場金太氏を名人と讃えている。それは取りも直さず釣りの技法もさることながら、見識、品格共に第一人者であった事が分かる。

 氏は明治34年土木請負人大場金太の長男として生まれる。当時の鶴岡には土木請負の組は三軒と少なく大層繁盛していたらしい。大正二年尋常小学校を卒業と同時に父の仕事に従事した。大場は移転工事を得意とし、後に金太は独自の移転工法を考え出し、釣技同様研究熱心なところをいかんなく発揮する。子供の頃から鳥刺し、釣りを趣味とし、殊に20代から始めた黒鯛釣りでは自らが作った庄内竿で数多くの大物を上げ庄内随一の名人とされた。

 本の中で「子供の頃は、まだ交通の手段がなく夜の12時に草鞋を履いて家を出る。加茂坂を超える頃、東の空が白々と明けて来た。そして青く黒ずんだ海が岩頭に砕け、白波が朝焼けに光った・・・・」と、氏は子供の頃の釣りを懐かしそうに回想している。しかし、その時の釣果はどうであったかは定かではないと云う。その頃の庄内の磯釣りは、まだ師匠について磯釣りの道徳、技術の習得が不可欠だった時代である。師匠(柿崎清吉氏・加茂周辺の釣り場をテレトリーとしていた)は、自分の釣りのノウハウと釣り場の全てを弟子大場金太に公開した。師匠は自分の技、釣り場の全てを公開したからと云って、何もその代償を弟子に求める訳ではない。師匠は、自分のすべてを公開するのだから弟子を選ぶ権利を有する。師匠の眼鏡にかなった弟子は、師匠が釣りに行く時は、かならずただ黙々とお供し、技術の釣りの技の習得に励むのである。

 撒き餌には、当時内川に沢山住んでいたヨコトビを使った。大場金太の家の裏に、まだ其の頃は清流とも云える内川が流れていた。その内川でヨコトビを捕え、いつでもお声が掛っていいように生簀に常時7、8升程飼っていたようだ。だから師匠が釣りに行くと云えば、何時でもでも釣りに行ける態勢を整えて置いたと云う。そんな彼が本格的に磯釣りに本腰を入れたのは、当時としては人より遅い二十代後半であったようだ。活躍したのは、昭和十年代から四十年代後半にかけての長きに渡る。

 晩年の氏は、好きな釣りを止め、竿作りに励んでいたと聞く。加茂の水族館館長村上龍男氏は晩年の金太氏を知る数少ない人の一人である。時折り加茂荒崎の付け根にある氏の十八番であった藤吉岩周辺に来ては釣り人を眺めながら、釣りの初心者に出会うと良く釣りの指導をなされていたものだと云う。そしてその釣り人が、見事クロダイを上げるとそれを我が事のように喜ぶ姿が見られたとも聞く。そんな彼を後人曰く「金太の前に金太なし、金太の後に金太なし」と称している