第72話    大八木式真鍮パイプ継 T」   平成20年04月30日  

 大正時代に作られた鶴岡の大八木釣具店から発売された大八木式真鍮パイプ継の庄内竿の作られた詳しい経緯は分からない。が、時代はそれまでの徒歩の釣りから交通手段の多様化(自転車、人力車→汽車、バス)と云う時代の要請によるものであった事は容易に考えられる。以前の釣りでは藩政時代からずっと鶴岡の町から加茂港へ抜ける峠を抜けて海岸まで歩いていたのだが、道路の整備とともに自転車、人力車でも行けるようになっていた。それが大正時代になると羽越線開通で汽車に乗れば三瀬以南(由良)の磯にも手軽に行けるようになっていた。

 しかし、大物を釣るような三間半や四間のような長竿は、交通手段を使うと他の乗客の迷惑となる為に駅員等と竿の持ち込みで度々トラブルが発生している。そこでなんとか携帯に便利な継竿をと考え出されたようだ。それまでの庄内竿は一点の傷を付けないで竿を作る事が庄内竿の真髄と云われていたのであるから、竹に携帯に便利だとは云え異物を付けると云う様な事は持っての外である。しかし、それ自体は庄内竿の進化と云う点から云えば、ある意味画期的な事件でもある。新し物好きは、その携帯性の良さから好んで買っていたようだ。しかし、懐古趣味の大半のベテラン釣り師達からは大方敬遠されていたのは当然であった。

 全国的に見れば、関東では並継、印籠継等継ぎ方には色々とある。此処庄内では何故にそのような継ぎ方が、開発されなかったのであろうか?少なくとも侍達は参勤交代の関係もあり、江戸の昔からその継ぎ方を知っていた筈である。いや、当然の事ながら、少なからず郷里に持ち込み釣りをした者たちもいる筈だ。不思議でならない。土屋鴎涯の「時の運」の第四話に「内の倅なども東京製の袋入りと成っている二間半以上の継竿を持って、三瀬で黒鯛を掛けたが、さした方が潰れてしまったから魚は外れ、改めて見ると、三ケ所の継ぎ手皆毀れて居たとて、其の後一切継竿を廃したようだ」とある。ここで云う東京製の袋入り竿とは、どの様な竿であったか分からない。

 少なくとも荒海で育った日本海の黒鯛を釣る為の竿ではなかったと思われる。三ケ所の継ぎ手とあるから、差し詰め比較的庄内竿に近い撓りのあるヘラブナを釣る為の竿であったに違いない。だったら尺五寸からある様な、クロダイを掛けたら毀れるのは当り前の事である。当地の黒鯛竿と云えば、篠子鯛(当歳魚)竿、二、三歳を釣る為の二歳竿、黄鯛から黒鯛を釣る黒鯛竿と区別して使う。他にスズキ竿、クロコ(メジナの子)竿、アブラコ竿‥‥がある。ただ、土屋鴎涯の「時の運」から、察するに大正時代の継竿に対する風評はそのような物であった事が分かる。