第74話    「伝説の釣りの名人・大場金多 U」   平成20年05月31日  

 昭和53年荘内日報社より、発刊された「名釣場第三集・技術編」によれば、当時の年老いた名人達から異口同音に名人と称えられている大場金太氏はどんな釣りをしていたか類推する文章がある。

 野口市松氏当時62歳は、次のように書いている。「自称名人は沢山いるが、他に類を見ないと絶賛する人が多い。磯場を大切にすること。海を汚さないこと。他人に迷惑をかけないこと。自分の釣り場は他人に譲るが、他人の釣りの邪魔はしない事・・・・・等後輩に教え説いた。彼の釣り方はその日の潮の具合を見定め、撒餌(ヨコトビ)をじっくりと一時間から二時間かけて行い、じっくりと魚を集める。そしてその後、ゆっくりと竿を入れた。餌はほとんど小エビを使っている。細糸を使用し、十二分に引かせて時間を掛けた後、釣り上げると云う釣り方であった」。

 彼の活躍したのは戦前から戦後の時代である。もっと詳しく云えば昭和10年代の前半から昭和40年代後半の三十年余の長きに及んでいる。戦後でもあまり丈夫とは云えぬ本テグス使用の時代あっても、あえて細仕掛けを使用していたと云う英断は並みの釣り師では中々出来る物ではなかったと想像出来る。当時大黒鯛を上げるには、最低でも7~8厘からで、大事をとって一分(厘は号、分は10号と同じ)を使うのが常識であった。スズキを釣るには、大抵一分以上を使っている。5~6()が昭和40年代後半のナイロンテグスの1~2号強さであった様だとお年寄りから聞いた記憶がある。昭和40年代後半のナイロンテグスの1~2号強さは、現在のカーボン糸で云ったら、0.8号以下であったに違いない。と云うのは、ナイロン糸全盛期にあっても、鶴岡の磯釣りベテラン勢は釣れたら絶対に逃がすまいと4~5号を当たり前のように使用していたからである。

 昭和50年代の庄内の釣り関係の図書を見ると、腕もないのに細仕掛けを使う関東風の釣り方をする釣り師たちを極端に嫌っている。撒餌で集めた釣り場に遠方から釣れているからと後から割り込んで来ては、細仕掛け使ってせっかく集めたバラして散らしてしまうと嘆いている著述が見られる。当時の鶴岡のベテラン勢は、クロダイの釣れそうな日は、必ず暗黙の了解、若しくは事前の申し合わせで必ず4~5号を使う事が決められていた。

 当時細仕掛けを使うと云う事は、余程の腕を持つ者でなければ出来ぬ技である。太仕掛けより、細仕掛けの方が、魚の食いが良いに決まっている。食わせたら、必ず上げて見せると云う技の持ち主でなければならない。それを後から割り込んで来て、細仕掛けを使ってバラスとは・・・・。他の釣り師がいない処に魚を集めての釣りだったら、まだ許せる。最低のマナーも知らぬ者たちの横行が、庄内の磯の魚の食いを悪くし、食い渋りに発展させた。

 リールを使わぬ延べ竿で而も細仕掛けで大型クロダイを釣って見せた大場金太氏の腕の確かさは、相当の技の持ち主であった事を証明している。だからこそ人品プラス相当な腕あり認められ釣り師と仰がれている。だからこそ亡くなってからも後人から慕われ続け昭和の釣りの名人とも云われ「金太の前に金太なし、金太の後に金太なし」と云われ続けているのである。