第78話    「庄内釣りの先人」   平成20年07月31日  

 古来庄内釣り師の知恵は、剣術と同じように師匠から弟子へ、弟子から孫弟子へと奥儀のすべては相伝の形で伝えられて来た。通称秘伝と称する物であった。よってその秘伝は一般公開されたと云う事実は見えて来ない。飽くまでも師匠、弟子の間だけの相伝が基本である。そんな生涯師匠、弟子の関係がなかった人たちは、釣り場で名人の呼ばれる人たちの技を盗見して、その技を覚えるしかなかった事になる。三十年代後半のグラスロッドの時代を経て、40年代後半のカーボン竿全盛期に入ると、庄内釣りも大分変わって来た。高価な竹竿から化学繊維の竿に変わり、庄内釣りの師匠、弟子の関係も次第に影を潜めその結果、秘伝の伝承も自然に薄れて来た。それまでの釣り方が大幅に変わって来たのである。しいて云えば釣りクラブにおいて名人と呼ばれる人達の指導の形で伝えられたり、又小雑誌を作り配られる事が、メインとなって来て、残念ながら実地の訓練の形での伝承がなくなっている。

 釣りの秘伝と云うものは、何も釣り場の選定だけではない。特に釣竿の扱い方=(小さなハキを見つけて自然に餌を流す為の、竿の打ち返し方や大型クロダイの釣れた時の竿の扱い方・・・・等々)と云うものは、本来現場で手取り足取り教えて貰えるものではない。同行した師匠の釣りの技を見て、それを自分のものにする事が要求されている。だから弟子の素質によっては一年かかるか、数年かかるか、それとも十年かかるか、全く分からないものである。紙に書いた形での説明では、肝心な事を把握する事が出来ない事が多い。逆に筆で著せない事から、その実技は秘伝と云われる所以でもある。

 実際の汐、波の状態においても、実際現場で見るものと写真では異なる。その時々で潮の状態は違っている。それが分らない為に、紙に書かれたものでは完全なる伝承とはならなかった。それでも極少数の勘の良い人は理論上での把握出来るようにはなったようだ。理論を通して、覚えても、現実には長い実践を経なければ中々自分に物に出来ないと云う事が現実である。それが師匠、弟子の関係をもってしても数年から十年以上かかるものが、それが字に書かれ頭の中だけで容易く理解出来るようになった事は良い事なのか、悪い事なのかは分からない。

 良い点としては、一部門外不出の技や釣り場の公開があった事で一定の技術を持った人は自分にとって良いものをだけを容易に選択し、取り入れる事が出来る事がある。何人かの名人の技の中、自分に合うものがあれば取捨選択が出来ることで、釣り人の技術を向上させる事が出来た。が、しかし技術だけは上向いたけれども、潮の見る目だけは長年の経験を持たなければならない。汐はその日一日のだけでも刻々と変化し、変わって行くものだから、その変化に対応しての釣りはベテラン釣り師の腕を持ってしても中々難しく、奥の深いものとなる。

 抜群の汐の見る目を持った江戸時代の名人生田権太は加茂の高台に登り、遠く海を眺め的確に汐の動きを見て「今日は釣れない!」と云い、そのまま鶴岡城下に帰った等と云う話を聞くにつけ、自分の愚かな腕を反省している。名人と呼ばれる者はかく在りたいものだと云う、文言である。