第80話    「酒田の釣」   平成20年08月31日  
 酒田の釣りは、今で云えば実にインスタントの釣りであったと思える。鶴岡の釣りは、磯釣りがメインであったのに対し、酒田は最上川と云う大河から長く突き出た防波堤の釣りである。

 その昔鶴岡では城下町から最短で10`からの山越えの道を加茂磯まで徒歩で磯釣りに出かけた。竿をあらゆる魚に対処出来るように自慢の四間の延竿を筆頭に何本持ち、背中にハケゴ(魚、釣り具、食事入れ)を背負い、腰には大小を差して出かける。かなりの重量となる。それが足腰の鍛錬になると釣りが奨励された所以でもあった。流石に江戸時代以降大小を束ねて歩くと云う事はなかったが、明治、大正と徒歩の釣りが続いていた。今は同じ道を車で走る。それでも鶴岡市内からでは、結構遠いことにはなんら変わりはない。鶴岡の釣りで云う磯釣りとは、短時間の釣りではない。一日、二日かがりの釣りは、当たり前であったといわれている。交通手段の便利な現代流石に二日かがりの釣りはしてはいないものの、朝から夕刻までの釣りが当たり前である。

 
酒田での釣りは、商人町であったから江戸時代の頃、釣りを行えば道楽者と非難されか゛は第一線を退いた隠居の身分の人たちの暇つぶしの釣りと考えられる。実際に若者も取り込んでの釣りは、昭和に入ってからであると考えられる。最上川、新井田川の両河川が注ぎ込む川口に石垣が作られた港があった。広大な汽水域があったが、大型黒鯛が棲み付く格好な状況ではなかった。それが釣れるような環境になったのは、新潟や秋田港に負けぬ近代的な港に整備され、最上川、新井田川を分断する堤防が出来てから後の事であったようだ。

 
鶴岡との最大の違いは、酒田の釣り人は山越えなどする必要がないので比較的短時間で釣り場に行く事が出来る。自分が釣りを覚えた当時でも、会社を終えてから毎日のように釣りに出かけるのが当たり前のように行われていたし、現在でもそれを当たり前のように行っている人が少なからずいる。そこに釣り方の違いが出ている。鶴岡の磯釣りでは撒餌を魚がいそうな根回りにじっくりと潮に乗せて流してやり、食い気を出させてから釣り上げる。それを酒田では防波堤の釣れそうな根回り(捨て石)を何箇所か覚えておき、根回りを攻めて行く釣りであった。

 
鶴岡の釣り人と酒田の釣り人と相いれなかったのは、城下町と商人町の気質の問題とも絡んでいる。そして磯釣りと云う釣り方と防波堤での釣りに密接にかかわっている。磯釣りを行う時は、十分にそれ相応の準備をしなければならない。そして重い荷物を担ぎ磯の潮通しの良い先端まで行かねばならぬ。その点防波堤釣りでは、至って簡単で比較的足場の良い防波堤の要所々の根回りを中心に釣り歩くだけである。又鶴岡の完全フカセ釣りに対し、酒田の釣りは流れのある場所での釣りであったから、巻き錘を使った。全く対照的な釣り方である。要は釣り場にあった釣り方をしていただけの釣り方であるが、気質の違いからか釣り方に関してもけっして仲の良いものとは云えなかったのである。

 
加茂磯や由良磯に釣りに行った時、「酒田しょ()は釣り方を知らネ。ここさに来んな!とっとと帰()!」とまで云われた事も一度や二度ではない。又ある時は「オメガタ酒田しょ()は、釣りをしら(知ら)ネ。ただおもで(重い)錘付けで、ダボタボ投げでもなんにも釣れる訳ネ!」。ざっとこんな具合だった。酒田北港では、こんな事があった。その日は水が透けて、まるで水族館見たいな日である。通常そんな日はあまり釣れないものだが、その日に限って二、三歳物がバタバタと釣れた。鶴岡の釣り人の一人は「こんな水族館見でなどご()で、釣ったって、おもしゃぐね(面白くない)!」と云って帰ってしまった。どんな条件でも釣れれば良いと思う酒田の釣り人、釣れない釣り場でようやく釣り上げた一枚が楽しいと思う鶴岡の釣り人の気質がある。尤も最近こんな趣のある釣り人には、お目にかかってはいないが・・・・。

 
釣りは一通りではない。同じクロダイを狙うにも色々な釣り方があってしかるべきだ。しかし、かと云って無駄な釣り方はしたくないものだ。釣った以上は、食べる分だけ残し、後は放流か欲しい人に差し上げる様にしたいものだ。肴にだって生きる権利があろうと云うものだ。それを人間は釣りと称する勝手な遊びで殺生しているのだから・・・・。