第86話    「継 竿 U」   平成20年11月30日  
 その昔庄内で作られた名竿は全て五年以上と云う手間暇を掛けて作られたものであって、釣り具屋が商売で作るものとは一線を画している。釣り具店等で売られて居た竿は、初冬に取った竹を年内二ヶ月位を目安に天日で乾かし、その後室内に入れて更に乾燥させ水分を抜く。翌春になってから、竹を火にかけて矯めて、竿にする。それを56月頃から販売した。釣り具屋にまずまずの良竿はあっても、名竿はないと云われた所以である。商売では5年も手間暇をかけて作ったのでは、採算が合うものではない。それでも50年代までは、釣りの好きな素人の竿師達は、昔通りの作法で作っていたものである。

 
竿が武士の刀に例えられた当時の竿作りは、素人の武士たちによって作られたものだ。趣味の延長だったから、幾らでも手間暇をかけて作られた。大魚が釣れて曲がったとしても、翌日には元に戻ると云った硬くしまった細く長い竿が珍重された。よって明治期に入っても、武士の系譜の人たちによって名竿が作られている。本間美術館の館長であり、刀剣の鑑定と同時に庄内竿の見立てでは庄内の一、二位の鑑定家でもあった本間祐介氏はこう述べている。「庄内竿は生れつき立派な竿になる一本の竹から作られている。何千何万と云う竹の中から数本の竹を選び作られているのだから、非常な苦心がいる。名人と云われた人はすべて士族の出で、その人に作られた物が名竿として残っている。売る事を考えず作るのだから、手間暇を厭わない」と。さらに「釣り具屋で作ったものには、名竿はない」ときっぱりと言い切っている。

 
武士の末裔であった明治期以降の名竿師達の多くは、確かに貧乏であったようだ。鶴岡の近郷近在には金に糸目をつけず、大金を投じて竿を眺めて楽しむと云ったスポンサー的な素封家数多くいて、庄内竿の収集していたので何とか食いつないでいる。大正時代に入り、鉄道がひかれ、バスが走るようになると長い延べ竿では、持ち運びに不便をきたした。そこで考えだされたのが鶴岡の大八木釣具店から発売された大八木式真鍮パイプ継である。大魚を釣る方法としては当時としては画期的な継ぎ方である。印篭継や並継では、魚の引きで竿が折れたり抜けてしまう事もある。真鍮パイプの中に溝を作り鋲の頭が竿の三分の一程度回転させる事によって魚に竿を持って行かれないように工夫されている。この頃から本来の調子が出ないとする延べ竿派とそんな事より携帯に便利であるとする継竿派の抗争が始まる。昭和の初頭(5年頃)最後の名竿師と謳われた山内善作よって、真鍮パイプ継が工夫され、螺旋式真鍮パイプ継となる。この工夫がそのまま普及し、大方の支持を集め今日に至っている。

 
黒鯛、真鯛を狙う為の四間、四間半の延べ竿では到底自動車や汽車で運ぶに不便をきたしていた事は謂うまでもない。延べ竿派の人たちは、鶴岡から加茂磯までの歩いての釣が大半だったし、それに対して携帯に便利な継竿派の人たちは新しく開拓された由良以南の磯等にも自由に行くことが可能であった。土屋鴎涯の「時の運」を見ると、鶴岡駅から朝一の汽車に乗る事で釣師と車掌のトラブルを載せている。当時こんなトラブルが鉄道やバスなどの交通機関であったと云う事は容易に想像出来る。


*写真は現在の螺旋式真鍮パイプ継
*大八木式真鍮パイプ継については「釣れ釣れ草71、72」を見られたい