第87話    「継 竿 V」   平成20年12月15日  
  庄内竿の大半が二つ、三つに切られ継竿になったのは、ほんの8090年前でしかない。しかも延べ竿派からも認められ、延べ竿の一つとして認知されたのは、たった3040年前である。現在残っている江戸時代、明治期の名竿もその大半が、その携帯性の不便さから継竿にされている。現在真の延べ竿そのものは、鶴岡の致道博物館でしか見る事が出来ない。それは一般の家庭には7m以上の竿を置き場所がないと云う事情があるからである。そのままの延べ竿で置けるとしたらせいぜい二間半(4.5m)までで、大きな家で三間(5.4m)の長さの物が、精一杯であった事情による。

 
継竿は大抵短い竿では二つ切りとなるが、長い物では三つ切りとなる。4間(7.2m)と云う長さでも三つ切りはあっても四つ切と云うのは殆ど見受けられない。すると一本の長さが平均でも2.4mとなる。これでは大型乗用車でなければ、運ぶことは出来ない。関東のような小継にすると本来の調子が狂うから云って嫌われたからである。長竿の殆どは大型の黒鯛、真鯛に耐える得る竹竿であったから、肉厚でしかも重量も並大抵ではない。又継竿から発展した道糸の出し入れが自由な庄内中通竿の継竿が素人受けし、純粋の延べ竿は少数派になっている。終戦後に開発された中通し竿は昭和の30年代に全盛となり、それが更に軽いグラスの改造中通竿に変わってしまっている。次に出た更に軽く丈夫なカーボン竿が出て来るとカーボン製の改造中通竿に取って代わられ、竹竿の実用性は全くと云って良い程なくなって来た。

  時代の要請にマッチした竿が作られなかった事が、庄内竿が廃れる原因と考えられる。それに現在ウキフカセ釣りが全盛となっている。若者たちがこぞって使っている竿を見れば、外ガイド付きの竿、庄内中通竿の発展型とも考えられるインナー型のウキフカセ竿である。庄内と云う地元では考えられなかった竿となってしまった。

 
しかし、釣り竿の原点は、飽くまでも竹竿である。数は少なくともその原点の延べ竿で釣る事が、釣りの妙味と考えられる。極々少数派でも、竹竿のファンは少なからず残っている。それは魚を釣って楽しいのは、明らかに竹竿にかなわないからである。ただ、竹竿で当たりを取るのは難しく、かなりの熟練を要する事も事実である。当たりかあっても中々魚を釣る事が出来ないと云っても良いだろう。難しいから、釣れた時の楽しさは、何物にも代えがたいとも云えるのではないか?熟練者にとっては誰にでも釣れる釣りでは面白くないとも云える。

 
継竿の話をして来たが、交通手段があまりにも便利になった結果、移動手段の車に入らなければ釣りに行けない時代となってしまった。何も三つ切りの2m余もある重い竿を持ち歩く人はいない。手軽な二間一尺(3.9m)〜二間半(4.5m)なら運ぶことが出来る。しかし、竿師の激減から、東京見たいな人口の多い多い都市でもなし、超高価になってしまった竿を買ってまで釣りに行く人はいない。ならば自分で作ればよい。