第91話    「魚拓の歴史」   平成21年02月15日  

 先日鶴岡市の古書店で、1964年(昭和39年)東京大学出版会発行・檜山誠著の「魚拓」と云う本を買って来た。昭和39年と云うと、東京オリンピックが開催され、大阪〜東京間の新幹線が登場した年である。

 
以前から魚拓と云うものに関心があるものの、未だに魚拓が出来ないでいるへっぽこ釣り師である。今迄幾度なくトライして来たものの、満足のいく出来栄えではなかった。思えば馴染みの釣り具屋のオヤジに頼み込めば、自分よりはるかに出来栄えの良い魚拓をとって貰えた事が、自分で再度のトライを止めた原因でもあった気がする。

 
日本最古の直接法及び間接法の魚拓が、此処庄内に残っていると云う事実は今から三十数年前から知人から聞いて知っていたのだが、その事実を常々中央でのつり魚拓を趣味とする人達に間に、その事実の認識があったのかどうかを知りたいと思っていた。そしてそれが、出来るだけ古い事実があれば良いと考えていたのである。

 
そしてそれはこの本の2.魚拓の歴史と云う中に見つけた。
「日本の古い文化のうちには、中国や韓国から伝来したものが少なくない。魚拓と云う語から受ける感じからも、いつの頃にかこれらの国から輸入された技術ではないかと疑うのは無理もない事である。しかし、今日までそのようかな事があったとか、また、中国や韓国に、古い魚拓が保存されて居たと云う事が立証された事は聞いていない。魚拓に必要な材料として、すみと紙があるが、その魚拓に適する性質のものが産せられるのは中国、韓国、日本などに限られて居るから、これらの国以外で、魚拓が発祥すると云う事は、まず考えられない。魚拓と云う技術はそれ自身写真などのようにそれほど高度に複雑なものではないから、自分の創意によって発明される機会は、極めて多いものと云うるだろう。したがつて自分が編み出した流儀だと考えるのも、無理もない事である。魚拓の普及に大いに貢献した故村上静人もその一人で、菓子袋に入れて持ち帰った魚の形が、菓子の色素によって袋の紙に鮮やかに写ったのにヒントを得たと云う事であった。これはわれわれのいう直接法と云うもので、一時はこれが直接法の発祥かと思われて居た(つり人社「魚拓」初版参照)。
これに対して、今日、われわれのいう間接法といっていものは、篠崎四郎が碑文の拓本とる方法として、石碑を汚さず、文字が左右反対にならぬ方法として用いていた物を、井出又男、遠藤鮒二、永田一脩等が魚に応用したという事実から、これが今日でいうところの間接法の発祥かと思われてきた。(雑誌「魚拓」第2号、1959年、16頁)・・・・・歴史も、現実の証明がいるとすれば、今から約百年前文久2年(1862年)に作られたものが、山形県酒田市の本間美術館に所蔵されていることが知られた時には、魚拓の歴史に新しいページが加えられなければならなくなった・・・・魚拓が、庄内地方は藩主酒井公が釣りを奨励されたので、釣りが今日でも一般に盛んである。したがって、釣魚の記録として当時魚拓の技術があったと云う事である。これが今日最古の魚拓である・・・・・。」

 
この当時(昭和39年)氏家直綱(18451911)の「鯛鱸摺形巻」が、日本最古の魚拓として考えられていた。直接法では江戸は仙台河岸で釣った一尺一寸八分の剛鯛(クロダイ・文久3年=1863年・庄内藩が江戸見回り役を仰せつかり、急遽その応援のため藩士の子弟達が50名ほど上京したが、当時18歳の直綱もその中に居た)で、間接法の魚拓は紅鯛(真鯛・文久二年八月十一日=1862年・金沢大中島・尺一寸五分)が、最も古いものとして書かれている。尚直接法に関しては、その後古い物が数点発見されている。最も古いものは文久二年より20年ほど遡り天保10年=1839年・錦糸掘の鮒・酒井忠発(タダアリとなっている。現在それ以上古い物は発見されていない。

 
庄内では魚拓は、釣果の記録として江戸時代より釣師の間で極く当り前のように刷られていた事が分かっている。関東ではそれが盛んになったのは、大正年間より以降であったようだ。ただ、庄内での魚拓が、関東より伝えられたものか、独自に発祥したものかは不明である。魚拓の著作者の云う通り、ひょんな事から直接法なり、間接法が生まれる事が考えられ各地に存在したとしても不思議ではない。ただ、記録としては庄内の物が最古である事は確かなようだ。