第93話    「釣の極意」   平成21年03月15日  
 菅実秀(18301903)は鶴岡の明治初期を代表する磯釣りの名人の一人と云われている。その釣りは、幕末の動乱期に中級武士から家老クラスの上級武士にまでのし上がった人物らしく、豪放と忍耐を兼ね合わせた釣りであったと巷に云い伝えられている。だが、色んな伝承を総合すると、意に反して理論家らしく微に入り細に入り、コツコツと理論で積み上げた釣りで、蔭では家に帰っても釣の技等を寝る暇を惜しんで必死に練習し会得した努力家であったらしい。

 
彼の来歴を見ると嘉永2年(1849年)父病気の為150石の家督を継いで嘉2年(1853年)世子酒井忠怒の近習とてなるも、安政5年(1858年)急逝の為職を免ぜられる。文久元年(1861年)藩主忠寛の近習頭となるも、文久3年(1863年)郡奉行となるも、同年江戸に上がり、家老松平権十郎18381914年)江戸市中取締りの役を補佐する。その後慶応3年(1867年)藩主酒井忠篤の側用人となる。翌慶応4年(1868年)戊辰戦争時には、松平権十郎と共に軍事係となり藩を指導、その後戦後処理に辣腕をふるう。明治2年相次いで加増され禄高900石となり、ついに中老となった。松平権十郎は明治4年(1871年)廃藩置県に誕生した酒田県の参事に任ぜられた時、権参事の菅実秀と共に県政を推進したが、明治7年(1874年)に起こったわっぱ騒動の責めを追い退官する。その頃鶴岡を会津の二の舞とならずに済ませた西郷南洲と交遊が出来、明治8年(1875年)松平甚三郎(戊辰戦争時家老職)等と共に鹿児島に赴いて師事する。南洲没後は、鶴岡に隠棲したが、旧藩主の側近を中心とした銀行の創設や産業の新興に努めた結果、保守派の御家禄派の代表者と云われ、鶴岡の政治経済に隠然たる影響を与える力を保ち続けた人物である。

 
そんな彼は無類の凝り性でもあったと云われている。釣りの他に刀剣、囲碁、朝顔の栽培、築庭、書画骨董、茶道、花道等を趣味とし、しかもその内容も徹底したものであったと伝えられている。その道の一流の人物を招いて自分の気の済むまで、克明に説明を聞くと云うものであった。

 
ある日波渡(鶴岡市波渡)の釣りの名人と云われた藤平なる者を呼んで自分の経験上から釣りに対する意見を述べた後、改めて藤平に釣りの極意なる物を聞き糾したところ、「釣りとはそんな回りくどい物ではない。一度竿を(海中に)ぶちこめば、魚を獲(と)るまで止(や)めねえものだ」と実秀を叱り飛ばしたと云う。その言葉を聞いた実秀は実に理にかなっていると云ったと云う伝承がある。藤平の云う言葉は全くその通りで道を極めた名人でなければ云えぬ言葉だと大いに称賛したと云う。当たり前の事を云っているように聞こえるが、名人の発したその言葉は聞き手も名人でなければ、その真の意味を直ぐには理解出来ぬものであると感じた。

 
釣りは理屈ではない。「狙った魚を釣れるまで釣る」とは、日頃釣師なら誰でもがやっている極く当り前の事だ。それでも狙った魚は中々釣れる物ではない。また「釣りとは、魚に教えられるものである」と云う言葉を残したのは、同じ頃の由良(鶴岡市由良)の釣名人と云われた九郎兵衛なる者である。釣りたいと思っている魚の釣れる条件を敏感に察知し、如何にして魚を釣り上げれるかが、ただの釣り人と名人と云われる釣人の分かれ道となる。確かに釣りの上手下手はあるかも知れないが、技はある程度の経験と習練でそれなりに会得出来る。魚がいない処で釣りをしても、狙った魚等は釣れはしない。その日の釣り場の選定も釣りの名人の条件となる。釣りの名人の云う言葉は、重くそれらすべて超越した上での言葉なのであるから、名人と一線を画す平凡な釣師の自分には中々難解な言葉ではある。