第94話    「昭和の釣りの名人・金井勝助」   平成21年03月31日  

 昭和の中期を代表する釣りの名人に金井勝助氏がいる。明治38年(1905年)旧鶴岡大宝寺村新斎部に六十七銀行の頭取金井成功の三男として生まれる。大正12年鶴岡中学、金沢の旧制四高を経て京都帝大経済学部を卒業し、六十七銀行に就職する。昭和十六年六十七・鶴岡・出羽・風間の各銀行が合併し荘内銀行が出来るとその支配人となる。その後取締役を経て昭和24年から47年にかけて頭取に就任し活躍する。

 
趣味として囲碁、俳句、歌留多、バトミントン、花道、小鳥などを嗜みそれら全てに一流の才能の片鱗を見せていた。各々有段、師範の資格を持って居たとの事である。多種多芸の才能の持ち節と云わねばならない。その他鶴岡在住の人らしく、当然のことながら釣りにも才能があり、釣名人と謳われ、更に作竿もこなしたと云う人物である。戦時中、戦後の経済の動乱期の荒波を乗り越えた激務の中、多彩な趣味を楽しむ余裕を見せ、しかもその多才な趣味もそれぞれ一流の域を超えた粋人であった。この金井勝助氏人に「一流の人物は一芸どころか多芸にも秀でている」と思わせた数少ない人物の一人である。

 
鶴岡在住の磯釣りの釣師の間で、名人として別格の存在として扱われていた。庄内に本店を持つ銀行の頭取と云う肩書から、大抵の人ならその前に立つと委縮してしまいそうであるが、温和な感じの一見何処に磯にでも釣りをしてそうな親爺さんであった。銀行頭取と云う激務の傍ら釣り師の憧れの真鯛釣りにも、精を出し二尺三寸クラスの大物を結構釣り上げている。


「名人と達人にはサビがある」とは、生前に良く語った言葉である。名人、達人に自然に備わったサビと云うものは、ただの釣りの上手には容易く出そうと思っても、そう簡単に出る物ではない。ただ粕を釣る釣りは竹からカーボンに変わり、道糸やハリスは丈夫で細い化学繊維となった今日、ある程度技量が伴わなくて力任せに魚と対峙すれば魚は結構簡単に上がって来るものである。最近の釣を見ていると竹竿の時代の遊釣としての釣りの趣が年々薄れて行っている。サビとは昔の剣術の達人と同じように、無心の境地になって魚と対峙し、自分の持てる力をすべて出し切った時に自然に滲み出て来るものである。そんな釣りの極意、名人の域達するまで上達する腕前等は、誰にでも備わる物ではない。油戸荒崎で僅か二間(約3.6m)の延べの竹竿で二尺六寸のスズキを上げて見せたりする芸当等は並みの釣師ではかなわぬ技である。かなりの釣りの上手でも、二尺六寸のスズキが相手ではどうする事も出来でずに糸を切られてしまうのが落ちである。

「春の天候は良い方に外れ、秋の天候は悪い方に外れる」とも語っている。正に庄内磯天候は、正にその通りで特に晩秋の天候の急変は気を付けなければならない。わずか30分が命取りになると云う事も度々ある。