第95話    「荘内藩の江戸時代の釣り」   平成21年04月15日  
 荘内の釣りの歴史書とも云える「垂釣筌」には18世紀後半から19世紀前期の釣についての記述がある。それによれば、1770年代の前半の頃までの釣りは釣れる物なら何でも釣ってやろうと云う、その時々で釣れる魚を釣ると云った一般的な釣であった様だ。そんな釣り方のピークは、天明から安永の頃(1772~1817)に現われた名人生田権太に代表されている。ただこの人がそれまでの釣り方と大きく異なっていたのは、事細かに潮を見極める術に長けおり、高台から海を眺めその日釣れる、釣れないの判断を容易に出来た事にある。又ドジョウでスズキを釣る等釣り方に彼独自の創意工夫を編み出したと云う事である。この人物、並みの釣師ではなかった事が伺え、当時の釣り師仲間の間で大層評判となったと「垂釣筌」は伝えている。この人物又、当時上磯、下磯と呼ばれた磯場を丹念に釣り歩き、今に残る名釣岩の大半に名前を冠したことでも知られている。垂釣筌を見た限りでは、生田権太以が活躍する時代の釣りでは、専門に黒鯛や赤鯛(真鯛)等の大物に狙いを定めた釣は、まだ主流ではなかったようだ。
 
 その後、神尾文吉と云う釣師が現れ、それまでの釣れる物なら何でも釣ってやろうと云う釣りを一変させた。彼が活躍したのは寛政から文化の頃(1789~1817)で、常に大物を狙う名人とし知られている。彼の釣り方は、後世天方(てんぽう)の釣り(本間祐介氏)と云われている。餌は大物一辺倒の為に主に蛸を使っているが、「垂釣筌」によればそれ以外に貝、蟹、マエ(岩虫)、早虫(船虫)等も使ったと記されている。晴れていても曇っていても、昼夜を分かたず釣りを続け、釣れなければ決して帰らないと云う徹底した大物狙いの釣りであったとも述べている。その為、彼が帰る時は、必ず大きな獲物を持ち帰ったそうである。

 垂釣筌の作者はこの釣り方を釣りの一大革命のような捉え方をして居る。彼が出た後の釣りは、何でも釣れるものなら釣ると云う釣りと大物狙い一辺倒の釣りの二つに分かれた。

 血気盛んな若侍達は、大物釣りに一層の拍車かけ、大小を競ったものと考えられる。二人の名人の出現により、釣りが盛んになり釣竿の製竿技術や釣針、テグス等の釣り具などにも大いに進歩が見られ明治、大正、昭和に引き継がれている。