第99話    「継竿一考察」   平成21年06月15日  

 継竿はかなり昔から存在していたものと考えられる。継竿に関する文献がなければそれを証明する事は出来ない。職漁としての釣りでは、手軽に作れる物を使用する。絶対にコストがかかるような道具は使用する事はない。遊釣としての釣ならば、多少のコストは厭わないから、必ず何かの文献が存在する筈である。近くの図書館で調べて見るとそれは「何羨録」(享保8年=1723年に津軽采女4000石の旗本)にあった。

 
「竿には二継ぎのもの、三継ぎの物があり最も便利の方が良い。延べ竿は上等な物でも感度の鈍い様な物もある。継竿の作り方は、もともと中は非常に性の良い竹を選び穂先には矢の竹を使う。矢の竹にも良いものと悪いものがあり、身の入りすぎた物は強いが重く、先も同じように重くなる。軽い物は弱くまたはしない過ぎる。また市中の店で売っている既成品などの多くは、継ぐ部分の差し込みが悪く、あるいは継ぐ方の竹の皮を削って差し込んでいるので大きい魚など掛けた時には折れる事が多い。またまた継具合がゆるい時は、抜ける事がある・・・・」

 
やはり継竿は利便性から出発したものであった。携帯性に優れ、丈夫で軽いものが悦ばれて居たようだ。津軽藩の分家であった采女は、4000石を貰い旗本となった。津軽采女は旗本と云っても要は、閑職である小普請組に属していたから、仕事などはない。釣りで暇を潰しているうちに釣りが趣味となり、本迄作ってしまったものである。そのお陰で後世の釣りの愛好家には、江戸時代の釣りを知る上でなくてはならぬ本になってしまった。当初江戸の釣りでは、富裕層の船遊びの一環として船を出して、小さな川魚等を釣っていたらしい。それが、いつしか時代が下がるに従い、釣り人口が増え海にまで出て行き大魚を釣る輩が出て来る。そうなると自然に小物を釣る竿から、魚に対応する丈夫な竹竿が、要求されて来る。色々な魚を趣味とする釣り人が、増加するに従い釣具を商う店が作られて来たのは当然の成り行きであった。

 
しかし、釣り人の要求する強くてバランスの良い継竿は、1780(天明)〜1800(享保)年頃には作られている。この頃に継竿の現在残る江戸和竿の原型が、ほぼ完成を見たと云って良いようだ。