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象潟にある通称蚶満寺は、任寿3年(853)に天台宗比叡山延暦寺の滋覺大師円仁が東国巡礼の旅の途中、8世紀初蚶方法師という僧が作ったといわれる庵の跡を干満寺として開山されたと伝えられている。滋覺大師円仁が東国巡礼の途中で開山伝説の残る寺が多いが、この寺もこのひとつである。
また、康元2年(1257)、北条時頼が訪れ、寺を中興し寺名を蚶満寺に改名している。この縁からかこの寺の寺紋は北条氏と同じの三ッ鱗を使用している。
宗派は天台宗、真言宗を経て更に天正18年(1590)宗旨替えを行い日本海側に多い曹洞宗として現在に至っている。
古より日本海の松島として風光明媚な土地として知られ、多くの歌に読まれ文人墨客が訪れている。西行法師の後を追って松尾芭蕉は酒田湊より元禄2年(1689)に訪れているこの寺を訪れている。
紀行文「奥の細道」の中で「此の寺の方丈に座して簾を巻けば風景一眼の 中に尽きて・・・・・・」とあり、また「江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島に通いて又異なり。松島は笑うがごとく、象潟は怨むが如し、寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」と書き残している。芭蕉の見た蚶満寺は八十八 潟九十九島の景色の要にあり、1804年の象潟大地震で隆起する前の象潟の絶景を見たことになる。
寺の船繋ぎ石からも数々の松の生い茂る島の跡が眺望出来在りしの面影が想像出来る。境内には夜鳴きの椿、平安三十六歌仙の猿丸太夫の姿見の井戸、船着場跡、樹齢千年とも云われる大タブの木、芭蕉の句碑、木登り地蔵、北条時頼公のお手植えのつつじ、親鸞聖人の腰掛石等がある。
芭蕉のこの地での句の代表に「象潟の雨に西施がねぶの花」がある。芭蕉の呼んだねぶ(,ねむの木)の花は、現在町の花に指定されている。ちなみに木は黒松、鳥が海鵜となっている。
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