鳥 海 山


1.鳥海山の概要と写真
2.鳥海山と信仰
3.山名の由来
4.東の松島、西の象潟と云われた景勝地「象潟町」
5.遊佐町の十六羅漢
6.県境の史跡「三崎公園」
7.象潟の湧水の里「元滝」
8.鳥海の「手長足長伝説」

9.蚶満寺(かんまんじ)












1. 鳥海山の概要と写真  (前記をクリックすると鳥海山の四季の写真が見れます)
鳥海山は秋田県と山形県にまたがる東北第二の高い山で出羽富士、秋田富士等と云われている。鳥海山は古来噴火を繰り返し西鳥海(旧火山)と東鳥海(新火山)の二つが一体となり美しい複式コニーデ型の火山となっている。
西鳥海火山の火口であった「鳥の海」(トリノウミ)がありその周辺には笙ヶ岳、月山森、扇子森、鍋森等の外輪山若しくは火口丘がある。一方東鳥海火山の外輪山は七高山、伏拝岳等があり、その北西側に大きなU字形の爆裂口がある。その中に新山(2236m)があり、ここが鳥海山の最高峰となっている。


     03-10-12 鳥海の紅葉
奈曽渓谷からの新山 奈曽渓谷 旧大平山荘
大平国民宿舎 大平山荘手前の紅葉 紅葉の鳥海より月山

2. 鳥海山と信仰
太古より霊地とされ深く信仰されて来たこの山の祭神は倉稲魂命・豊受姫神(同神)=薬師如来=鳥海大権現で地元の大物忌神社(吹浦の一宮大物忌神社と蕨岡の一宮大物忌神社が同格)が祭祀を司って来たが、、どちらが早いかは不明で明治政府の神仏混合禁止令の時に同格で二つを一社として扱われた。
神社の創建は欽明天皇の25年(約1400年前)と伝えられてはいるが、そもそもの信仰の対象が山体であり神社ではなかった。宿世山(スグセヤマ)とも云われ月山の死に対し、鳥海山は生といい対になるものであった。鳥海山は活火山であり578年の噴火以来たびたび噴火を起こしており、其の都度荒ぶる神を鎮める為に朝廷が位階を上げてきた。この頃から大雨が降ると時々縄文時代の石鏃などが露出し、それは蝦夷達の叛乱の起きる前兆として捉えられ都の朝廷に報告された。やがて麓に遥拝所として鳥海山の神を祀る神社が作られ其処を中心に栄えるようになった。838年従五位下より正五位を受け862年には官社となり延喜式明神大社となった。

仏教が出羽国内にも浸透し、平安期には修験の山となりやがて神仏混合へと変革し、大物忌神の本地佛として薬師瑠璃光如来とされ後に鳥海大権現と称するようになった。やがて由利(秋田県)の八島側(当山派の真言宗)と庄内(山形県)の蕨岡側(本山派の天台宗)の修験者同士による山頂の薬師堂の建立を巡り争うようになった。山形県側には吹浦両所宮(大物忌、月山を祀る)と蕨岡大物忌神社の二つが在り、同じ天台宗に属していたが、何かと主権を巡り争うようになっていた。古来蕨岡の大物忌神社が20年に一度の山頂の本社の建立を独占し鳥海大権現と称する薬師如来を安置し薬師堂を建立してきたが、しかし元禄14年(1701年)の本社建立にあたり、本社の争いと宗門の違いなどから八島藩と庄内藩を巻き込んでの領地争いにまで発展した。江戸幕府に訴えたが、平安期の三大実録の中の「従三位勲五等大物忌神社、飽海郡の山上に在り、巌石壁立し、人跡至る稀なり、夏冬雪を戴き禿して草木無し、去る四月八日山上に火在り、土石を焼く、又声在りて雷の如し・・・」の一文をもって庄内側に有利な裁定を行われた。八島藩側の折衝を行って来た若き家老職の者が其の裁定に憤慨し庄内藩に至り切腹し抗議したという事件も起きた。

中世に羽黒修験が力をつけて出羽、陸奥一帯の修験を束ねるようになっても鳥海修験は同じ天台宗の系統を引く羽黒修験に対抗し続け、羽黒山の年中行事には参加せずにきた。明治に入ってから神仏習合の禁止に至り寺院の管理から離れ神社が独立した。明治政府の意向で吹浦、蕨丘の神社は両方とも一の宮とされ同格となった。寺院から離れた吹浦(神宮寺は神道に改宗し、仏像は女鹿の松葉寺に移された)、蕨丘(竜頭寺以外神道に改宗)の両所とも修験道の禁止も相まって、位階はともかくとし往時の姿は何処にも見えな。わずかに5月3日の蕨岡の大御幣祭りに修験の行事を垣間見ることが出来る。一方、羽黒山は出羽三山神社が峰の行などの修験の行を特殊行事として残してきて、さらに戦後になって一部の寺院が羽黒修験宗を復活したので羽黒修験が残っているが、鳥海修験に至っては往時の面影はまるっきり何も残っていない。それは鳥海山の修験の場合、山形県側吹浦、蕨岡が天台宗で秋田県側象潟町小滝、仁賀保町院内、八島町八島は真言宗であったが、各々の独自の修験道場を持ちお互いに独自性を強調するが為に同じ宗派内でさえ争いが耐えなかったことに起因する。各々が一派となって最後まで一山を形成することなく終わった。羽黒山(天台宗と真言宗の二派があったが゜、江戸時代以降天台宗が主導権を持ち、羽黒派修験道として一山を形成し幕府にも認められていた。)みたいに傑出した寺院が出なかったことにもよる。


奈良時代に仏教が出羽国導入されて以来、地元の山岳信仰と神仏とが習合されさらに薬師如来が神の姿となり現れるという本地垂迹説へと発展した。その為、鳥海山には薬師如来、修験道にちなんだ地名が残っている。
@ 荒神岳 火の神、火伏せの神の三宝荒神。
A 七高山 七仏薬師法の霊場から来ているという。
B 瑠璃の壺 旧火口の湖で、本来青い宝珠。
C 行者岳 仏道を修行する僧に由来する。
D 文殊岳 文殊菩薩から来ている。
E 氷の薬師 八島口に位置し、9合目の雪渓にある。
F 舎利坂 八島口の氷の薬師と七高山の間にある坂。
G 賽の河原 三途の川にあるという。
H 伏神岳 遠く離れた場所から神社を遥拝する場所で、湯の台口のアザミ坂を登った場所にある。
探せば、この他にも色々地名が残っているようだ。 


3. 山名の由来
古の山名は大物忌山、飽海山、飽海岳、比山(日山とも云う)、北山、羽山、鳳山、宿世山(スグセヤマ)等ど云われて来たらしい。鎌倉時代の第八十三代後鳥羽天皇の時、清原良業の作と伝えられている「和論語」の中に初めて「鳥海(とりのうみ若しくはとりうみ)大明神」と出ているのが鳥海という漢字の表現始である。この頃はとりのうみ若しくはとりうみであって、まだ「ちょうかい」ではない。訓読みで音読みになってきたのはいつ頃であろうか? 
平安期の三代実録の方には「飽海の山」としか載っていない。
代表的な説
@ 前九年の役を引き起こした奥州阿倍氏の直系で九州大宰府に流されたという鳥海三郎宗任、鳥海弥三郎家任(両者とも三郎、弥三郎との本もある)の兄弟の子孫が秋田の由利郡に舞戻り由利氏を滅ぼした。その姓であった鳥海(トリノウミ)がいつしか音読みとなり鳥海となったと云う。その子孫と称する鳥海(トリノウミ)氏は今でも秋田県側と山形県側の蕨岡地区の神仏分離令の時坊を営んでいた阿部氏(=中世に鳥海姓だったのを先祖の阿倍氏を名乗っていたという)、藤原氏を名乗っていた人達が鳥海氏に改姓し今に至っている。
A 新山ができる前の火口であった火口湖の鳥の海(トリノウミ)に由来するとしている説
B 由利郡象潟町小滝地区の金峰神社の舞の「チョウクライロ」が「チョウカイ」に訛ったとする説
C アイヌ語の太陽を意味する語「チュッカイ」か、我々の山を意味する事から来ているといい、又「チ・オカイ」から来るものとする説もある。

4. 東の松島、西の象潟と云われた景勝地「象潟町」
象潟のさんぽみちの地図をクリックで拡大されます。緑の点々が旧松島です。

芭蕉が訪れた頃の象潟は「東の松島」「西の象潟」といわれて居た景勝地であった。象潟は八十八潟・九十九島と称され、松島と並んで多くの文人墨客が訪れている。芭蕉以前にも平安末期の歌人西行法師も訪れて居るものと見え和歌が残っている。

「松島や おしまの月は いかならむ 
         ただ象潟の  秋の夕暮れ」


紀元前5世紀頃の鳥海山の大爆発で現在の象潟町付近は、火山岩と火山灰におおわれ海側に半島状に迫り出していた。その後の度々の大地震で陥没したり、火山灰が侵食されて硬い火山岩の島が入り江の中に残った。そして南北2Km 、東西に1Kmの入り江の中に大小無数の島が浮かび、松の木が生え絶景の地として有名になった。だからこそ奥の細道の途中で、わざわざ酒田から象潟の地に芭蕉が足を延ばしたと考えられる。「奥の細道」の中には「此の寺の方丈に座して簾を巻けば風景一眼の中に尽きて・・・・・・」と書いており、 蚶満寺は昔、八十八潟九十九島の景色の中心地として栄えてきた。彼の芭蕉の有名な一句がある。

「象潟や 雨に西施が ねぶの花」

1804年の大地震で2m40cmという大隆起で、九十九島と云われた数多くの島々がすべて陸地となってしまった。現在ではすっかり潟が消えうせ、水田の中に僅かに昔の島の跡が点在しているのが分かる。牧野永昌筆の「象潟図屏風」(道の駅の展望台にコピーが展示)では当時の絶景が偲ばれる。象潟町北の外れにある道の駅「ねむの丘」の展望台からの景色が素晴らしい。特に初秋から晩秋に掛けての良く晴れた日には、鳥海山の北側の爆裂口と共に古の島々の跡が水田の中がにポツポツと見渡せます。

牧野永昌筆 象潟図屏風 左 牧野永昌筆 象潟図屏風 右
初冬の鳥海山 蚶 満 寺 水田に残る島の名残
水田に残る島の名残 水田に残る島の名残 水田に残る島の名残

5. 遊佐町吹浦の十六羅漢
庄内の北、遊佐町の吹浦(ふくら)地区の国道345号線(旧7号線)沿いに十六羅漢の磨崖仏がある。
江戸の頃難所で有名であったことから海禅寺の第21代住職寛海和尚が、海難事故でなくなった人の供養と海上の安全を祈り、月光川河口北側の海岸の岩に元治元(1864)年から明治元(1868)年にかけて彫ったという磨崖仏である。釈迦三尊、十六羅漢など22体が彫りされていたが、厳しい日本海の荒波、風雪にさらされて風化が激しいが、見る価値はある。
日本海の美しさが、風化が激しい十六羅漢を時代をより引き立たせている感じがする。旧7号線(現345号線)からの鳥海ブルーラインの上り口のすぐ先を右に入った「サンセット十六羅漢」の駐車場に車を置いて国道に架かって居る歩道を経由し見学できます。見学の後は、ここの鳥海山の湧き水とトビウオのダシでとったおいしいトビウオラーメン、夕日ラーメンが絶品です。
晴れた日の夕方は、ここの展望室より、日本海に沈む夕日をコーヒーをすすりながら見るのも良いでしょう。ここは名前のとおり夕日が沈んでから閉店する店なのです
サンセット十六羅漢の駐車場 奇岩に彫られた羅漢様

6. 県境の史跡「三崎公園」
国道7号線を北上すると秋田・山形県境に三崎公園が見えてきます。
観音崎、 大師崎、不動崎の3つの崎が日本海に突き出ているので、 「三崎」の名がついたのです。
鳥海山噴火の際の溶岩が、長い年月風雪や日本海の荒波で浸食され切り立った崖が出来きて、古くから日本海側の街道の中の難所の一つとされきました。この難所に有耶無耶の関と云う関所が置かれたいました。
公園内に義経、芭蕉等も通ったと云う「三崎山旧街道」が現存し、江戸末期の戊辰戦争などの歴史の散歩道と して親しまれています。又、キャンプ場、長さ47mのローラーすべり台、フィー ルドアスレチックなどが整備されている。自生タブの木の北限ともいわれ樹齢百年以上 のタブの木の林に囲まれております。
三崎山遺跡からは殷時代の青銅刀子(東京国立博物館蔵)が発見され、一緒に出土した土器から紀元前1300〜1000年頃の物と推定されております。同じ鳥海山の裾野の吹浦付近には、5000年前からの遺跡が点在しており日本海ルートを使っての何らかの交易があったものと考えられています。同じく日本海ルートで北上した秋田県男鹿のナマハゲも、これに類似したものが能登半島から青森にかけての各地に多く見られます。庄内北部の当三崎公園の南側の女鹿、滝川地区にはアマハゲとして残っております。
また、三崎山公園のイベントとして秋に秋田・象潟町と山形・遊佐 町との間で県境をかけた陣取り合戦が行われていたが、最近では行われていない。
三 崎 公 園 三 崎 公 園 案 内 板
奥の細道 旧 道 観 音 崎 三崎の断崖
大 師 堂 古い形の五輪塔 北限のタブの原生林
大 師 崎 不 動 崎 大師崎の灯台と展望台

7. 象潟町小滝地区の自然の湧水「元滝」

 象潟町小滝地区から少し奥に入った場所にあります。
 元滝正面岩肌一帯から、鳥海山の伏流水が勢いよく流れ落ちて来る景観はとても素晴らしいの一語に尽きます。伏流水の流れ出る石壁は、緑の苔がびっしりと着いて、水と緑のコントラストが何とも云えません。原生林の地中を通ってくる水はとても円やかで美味しいです。高さはもとより、滝の裏側に入っての「裏見の滝」が、在るといいますが云ったことはありません。こんなに水量が多いのに夏季になると滝の水が枯れてしまうことがあるとか。

新緑に映える5月の元滝


8. 鳥海山の「手長足長」の伝説
全国に「手長足長」の民話、伝説が残っており話は大筋では似たり寄ったりの様だ。遊佐町吹浦にも「手長足長」の伝説が残っている。秋田県象潟町小滝地区の「手長足長」の話では庄内の天台宗の慈覚大師が真言宗の弘法大師に変わっているだけで内容は同じだ。
昔々、鳥海山に手長足長という鬼が住んでおり、其の鬼は、手足が自由に伸び縮みが出来た。それで手を伸ばしたり足を伸ばしたりして、時々山から麓の村に降りてきては村人を食ったりした。
鳥海山には昔から大物忌という神様が祭られていた。この大物忌神は三本足の霊鳥を遣わして人々を手長足長の乱暴から逃れさせようとした。この有難い霊鳥は、手長足長が鳥海山の山頂にいる時は、「無耶」と鳴き、里に下りてきている時は「有耶」と鳴いた。人々はこの鳥を、有難い大物忌神の使いだといって拝んでいた。
貞観6年、慈覚大師様は、有難い仏の教えを全国に広めるため東北の地をまわっていた。慈覚大師様は鳥海山の麓で、手長足長に人々に乱暴を働いていることを聞き鬼を封じ込めるため、三崎山(有耶無耶の関付近)に護摩壇をつくり、不動尊像を置いた。
百日間の火散の法の満願の日、不動尊像の目からすさまじい閃光が鳥海山めがけて走り、大地は鳴動し、鳥海山の頂きがはじけ飛んだ。同時に手長足長も粉々に飛び散ってしまったと云う。はじけとんだ飛んだ鳥海山の頂きは、海に落ち、今の飛島になったと伝説が残っている。

以来此処にあった関所を「有耶無耶(うやむや)の関」と云う様になったと云う事である。
又、「手長足長という鬼」のほか「手長、足長の毒蛇」、「大蛇」、「手長足長の大男」という話しや大物忌神が使わした霊鳥は「三本足の烏」だという話もある。