日本一の大地主「本間家」

本 間 家 旧 本 邸 (旗本2000石格の書院作り) 本間旧本邸の入口付近
別荘「清遠閣」(現本間美術館) 回遊式庭園「鶴舞園」 回遊式庭園「鶴舞園」

酒田の本間家は最高で3000町歩の田地を持っていて、戦後の農地解放により没落地主となった。「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・・」と歌まで読まれる程のお金持の本間家であった。江戸より今日まで幾度となく困難を迎え其の都度困難を乗り越えてきた。戦争前まで大地主であった本間家は、終戦直後の農地解放という根底から揺るがす危機存亡を分家本間祐介氏等の努力で乗り越えて復興した。


本間家の歴史

 本間家の生い立ちは村上天皇の第四皇子(村上源氏)の子孫という事になっている。
 鎌倉期に相模守となり、関東(神奈川県座間市の旧本間村)に下りそこで本間姓を名乗ったのが始まりとされる。更にその後佐渡守に任ぜられ、一族が越前、越後に散らばった。南北朝の頃一族の中の季綱(すえつな)なる人物が越後から庄内の下川村に移り住んだという。其の長男光重が酒田に移り、弟兵部はそのまま止まり下川本間姓を継承し続いている。当時の酒田は向かい酒田の時代であった。水害を避けて主計忠光の時(1521〜27年の頃)に当酒田に移転して来た。菩提寺の浄福寺の過去帳には1616年没の三郎左衛門綱光から記載がある。この時代は商人であったろうが、何を商っていたのか不明である。

本間久右衛門(本間家26代目)の次男本間久四郎原光(もとみつ)が分家し初代(酒田の本間家)となった。それで現在の旧本間本邸のある場所前に間口4間3尺、奥行き33間で新潟屋の屋号で旗揚げした。播州の奈良屋権兵衛、大阪の小山屋吉兵衛、京都の小刀屋太兵衛等から古着、染物、金物などの雑貨を仕入れ販売し、米を売って商売を拡大して儲けた金で田地を買った。以後儲けた金は田地を買う事が本間家の家訓となる。農業資本を金融資本に変えて富の蓄積を図った事が成功し、現在まで家が続いた。1707年には父久右衛門の後を受け酒田三十六人衆に加えられる程になり、長人(おとな)になる。1725年には酒井家の京都上洛の御用米として312俵献上するまでになっている。その後、何代にも渡って米、金を酒井家に献上することになる最初の事件である。

二代目光寿初代の遺志を継ぎ三十六人衆の一人に加わり問屋衆の信望を集めた。先代の意思により米1200俵を庄内藩に献上し、永代70表扶持の扶持を頂き登城を許される。末弟の宋久は投機の天才で大阪の堂島、江戸の蔵前で米の相場を張り神様とまで云われた。
また、「座頭連判貸し」と言われる貸し金(金融業)を始め、更に庶民金融として湊人足の越冬資金などの個人金融、町内の連判貸し等をはじめた。

三代四郎三郎光丘 本間家中興の祖と言われ、庄内砂丘の植林や庄内酒井家、米沢上杉家などの財政建て直しを援助し、更に商売を拡大した人物。家業を継ぐに当たって投機の神様と言われた叔父の宋久に@「投機はその人の才能であるから家業とするべからず」A「余剰金は土地を買え」と諭される。現在日和山公園内の光丘神社に祭られている。
19歳の時姫路の奈良屋権兵衛(馬場了可とも云う)という学者であり、大商人であったその下で商いの道と同時に学問を学んだ。酒田に帰ってからまず手にかけたのが、毎年の飛び砂の害に苦しむ庄内浜の大砂丘(今に残る鳥取の砂丘以上といわれ、毎年飛砂に悩まされていた)の植林を藩に願い出、すべて私費で行った。失敗に失敗にを重ねての成功で、砂丘地のほかの地区でも光丘に習い植林(以後庄内浜の「大砂丘=南北35km55,489haの面積はわが国第二位」が松林に代わって行った)が行われるようになった。この功績で没後16年にして現在の日和山公園内の山王の森に松林碑が立てられた。この時代になると酒井藩が困窮をはじめ、才覚のあった光丘が藩の財政再建のため御小姓格として「御家中勝手向取計」を命じられた。金4000両を融資し、更に大津商人から高利で借りていたものをすべて肩代わりし財政再建に取り組んだ。1768年には米二万俵を備荒籾として献上、飢饉に備えた。また、幕府の巡検使の為本店前に2000石格の旗本屋敷を新築し提供した。この後、藩が子孫永住の許可を出し本邸となり現在まで残っている。この頃には石高300石の士分に取り立てられた。
 度重なる酒井家への多額の献金、献上米、金の融通等で酒井家より書画、骨董などを頂き其のすべてを本間美術館が所蔵管理している。
 1783年の天明の大飢饉の際は、光丘備蓄米として2万4千俵を放出し庄内では一人の餓死者を出さなかったという。やがて庄内藩の反本間派の白井氏、竹内氏から阻害される様になっても抵抗を示さず、黙って職を辞したと云う。その間、米澤の上杉藩の中興の祖と云われる上杉鷹山公に要請で財政の援助をし藩の窮乏を救った。更に酒井氏支藩であった松山酒井藩その他亀田藩、八島藩、本庄藩、二本松藩、津軽藩等にも財政再建の手を貸したので、以後明治に入っても本間家との親交があったと云う。
 光丘は相手がどんなに理不尽があっても権力に逆らわず、理解されるまで待つという姿勢を末代に伝えている。そんな多忙な光丘でだあったが、光丘の時代で全国の長者番付の前頭何枚目かに顔を出すような大地主であり大商人になっていた。
 光丘が財産を引き継いだのは田地350俵、現金1000両であったが、1801年に亡くなった時には田地1万6000俵、貸し金5万4781両、銀5万貫であったという。当時は田地は広さではなく石数か俵(当時は1俵が5斗)であらわしている。
 更に本間家では田地の質入期間普通10年の所、30年と云うのが最も多く更に100年と云うものさえあり借り手を優遇していた。それでいて過酷な取り上げもなく買戻しにも応じ、大豊作の時には更に土地を追加して返却した事例さえあったと云う。小作人、農民を労働力として考え丁重に扱った。こういう考え方があったので、本間家の小作や農民達は一度も一揆、騒動を起こさなかった。この頃から取立ての厳しい殿様に年貢を納めるより本間様の小作になった方が良いと云った逸話も残っている。

四代光道は6隻の本間船を作り、松前航路(所謂北前船)に加わった。1804年の大地震で西の松島と言われた象潟の地盤が隆起した時巨額の救済資金を提供している。この人も引き続き庄内藩から300石の扶持を賜っていた。1820年にかねてから交流のあった加賀の豪商高田屋嘉兵衛に412両で本間船を注文している。この頃光丘を失脚させた反本間派の白井氏、竹内氏等が幕府に失態をおかし、今度は光道が再び藩に迎えられた。1813年頃から酒田湊および周辺の整備を行っている。又この年に、後に美術館となった別荘を4〜5年かけ冬季の湊人足の失業事業として行っている。鳥海山を借景とした武学流回遊式庭園と記録されている。

五代光暉も引き続き庄内藩から300石の扶持を賜っていた。1832年の庄内藩の日光東照宮の廟の修理には1万両を献上し、更に2000両を追加献金している。
1833年の天保の大飢饉には地震も重なり疫病が流行った。6月まで棺桶だけで2000個と言う大災害の年であった。この時も医会所を作り、窮民には米を支給し救済施粥所を設け難民救済にも当たった。手持ちの船を加賀、肥後に回して資金の続く限り米を買い入れ領内から餓死者を出さなかったと云う。翌年も飢饉の余波が続いたが、功労が認められて藩侯から更に100石の加増を頂いた。1847年藩の長岡7万石への国替えの沙汰があり30万両(現在の金で100億以上)の借財の要求があった。将軍家の内部事情での沙汰であり、藩にとっても14万石(実碌20万石)から半分の7万石への転封である。藩としては直接陳情等表立って動くことは出来なかったので、本間家等の商家が運動資金を密かに出して、反対運動を行う一方、農民等の一揆や農民代表の近隣大名に反対を陳情した結果、この難局を乗り切った。大名たちも明日はわが身と反対に回ったものと考えられる。この時本間家だけで3万4570両の大金を使った。逆に云えば無理難題であっても一度出した命令を撤回するなど、幕府の弱体化が始まっていたと考えられる。その後水野越前守忠邦の発案で上総の国の印旛沼の開さく事業を四藩共同で命ぜられた時献金1万両を命ぜられ出している。更に庄内藩が外国船に対する沿岸防備につかせられて、1000両他大砲5門を献上した。

6代目光美になると幕末の動乱期を迎えていた。1861年に藩主の隠居に伴い隠居所を作るのに1万両、江戸の町を取り締まる「新徴組」を藩が預かった為に軍用金として1万両を献納し更に2万両を分割して提供した。藩の為に武器弾薬を買い付けた額は「光美日記」に寄れば其の額5万両にも達している。新式の武器で東北の諸藩が破れた後も頑張ってきたが、明治元年9月についに庄内藩も降伏した。徳川家縁の譜代大名であったにもかかわらず参謀の黒田清隆、西郷隆盛等の計らいで福島の会津松平藩の二の舞にならず、比較的穏便に済んだと云う。其の為、ことに西郷隆盛に恩義を感じ西南戦争の時、九州鹿児島にはせ参じようとした者が多かった(鉄道もなく、遠隔地の為大半の者が間に合わず戻っている)と云う話がいくつも残っている。
 その後、戊辰戦争の戦後処理の本間家に対する仕置きを覚悟したが、大蔵卿大隈重信に呼び出され5万両の献金で済んだ。今度は明治政府から酒井藩の磐城平転封の沙汰があり、70万両を献納することで中止となった。戊辰戦争の後なので、藩には金がなく領内で基金を募り士分の者は財産を売り8万7千両、鶴岡の町民1万8千両、酒田町民9千700両、本間家では5万両を都合した。更に酒井家でも先祖代々の重宝などを売ってようやく35万両を明治政府に納めたと云う。明治新政府も財政に苦しみ、このような処置を行ったものの、批判もあり中止に追い込まれた。光美は新政府の鉱山取締方、次に司農方を命ぜら農政を担当し農業の振興につくした。亀ヶ崎城内に民生局が置かれ酒田県となった。

7代光輝は22歳で跡目を継いだが、その間相続問題が発生し、父光美は40才で隠居した。光美だけではなく鶴岡県令らの和解工作での解決であった。隠居後は7代8代をを補佐し、本間の分家16家の合議制「十六日会」を組織化し、本家を中心に体制の強化を図った。明治22年町政が敷かれると同時に、初代の町長になっている。時に36歳。其の頃の本間家では酒田の県税の戸数割の3分の一を負担していたという。明治27年の庄内大地震で米倉庫「新井田倉庫のいろは倉」が焼失し、米が満杯であり多額の損失を出した。しかし、本間家は救済金として当時の金で5000円、白米250石、薪250棚、人夫1344人を地震の復旧に提供している。このように酒田の本間家では「損して得を取れ」といった慈善事業を何回となく行っている。
 今に残る山居倉庫の米倉が新築で残っていた為に酒田の倉庫業は本間家の独占となった。更に農業(自前の本間農場を作り、庄内の農業の振興に役立たせた)の振興に力を入れ、一俵5斗を4斗とし更に品質の向上に努めた結果、酒田の山居米として世間から良い評判を取るようになったと云う。更に町立酒田商業学校の建設時には土地と建設費、山形高等学校の建設の時は5万円を寄付したり、財団法人育英会を創設もしている。光輝は各種団体に対する寄付や地元に対する功績も多く男爵の贈位の話もあったが其れを固辞した。又、一族の動産、不動産を利用管理する信成合資会社(現在の竃{立信成)も設立した。

8代光弥大正7年になって三代光丘の植林が国に認められ正五位に贈位され、酒田町では其れを記念し市内の長坂松林といっていた場所を光ヶ丘と名称を改めた。と同時に10年には日和山公園内に光丘神社の創設の為「頌徳会」が発足、庄内三郡の町村長以下178名の連著で内務大臣の許可を申請し12年に許可を貰った。そして光丘が植林した基点に光丘神社が大正13年5月に完成した。光弥は光丘神社が出来たことから同じ日和山の中に光丘文庫を建設し、本間家の蔵書数万冊および金5万円を寄付、地元の有力者も賛同し蔵書3万冊が集まったという。後の図書館は昭和33年に財団法人を解散、酒田市に寄付した。光弥は公共事業、社会事業に合わせて約100万円の金を寄付、また、光ヶ丘に残る国立倉庫は昭和元年全国2番目に作られ、翌2年に記念事業として全国米穀大会が酒田で開かれ米の酒田と本間家の存在が全国に知られるようになった。この建設時には本間家で1万坪の敷地を国に寄付している。

9代光正は30歳で跡を継いだ。光弥には長男光正他娘3名に下に男がいたが、早世した。又光弥は妹と二人兄妹であったので妹に鶴岡藩士服部家から婿養子を貰った。其の子が順治(日本刀剣会の第一人者となり文学博士となった)従兄弟の祐介(竿師、釣道具をやっていた)が、光正出征のため18年に本間家の依属(支配人)となり、光正の死亡で戦後のGHQの農地解放に対処し、本間家を復興した
昭和18年光正は出征のため、従兄弟の祐介に頼み家事一切を委任したが、昭和20年病気をして終戦を待たず3月には亡くなった。

10代真子(マスコ)16歳の時いや応なしに父光正を亡くし本家を次ぐ羽目になった。敗戦と相続税、財産税、富裕税それに戦後のGHQの農地解放等の難問が待ち構えていた。光正の未亡人、光弥の未亡人と真子の女3人の本家であった。農地解放の影響は不在地主であった一族も関連会社に頼っている者も多く、次第に困窮し家屋敷まで手放す者も出てきた。そんな中、本間祐介や一族の本間久治、一番番頭の荒井清などと協議しながら、あらゆる努力の結果、諸問題を解決しやっとなんとか本家の存続の目途が立つようになった。農地解放の結果は、本間本家の農地は試験場の4町1反を残すのみとなった。公民館法が出来ると本邸を市に貸し、別荘は本間家より美術品1000点、基金500万円土地1192坪の提供を受け全国に先駆けて財団法人酒田市美術館が地方美術館として発足した。
商売のほうでは、今まで小売などを経験していなかった本間一族であり、当然売り上げは伸びず、莫大な税金を払う為に、四苦八苦していた。丁度其の頃若い頃から働きに来ていた村井秀三が戦地から帰って来た。村井は商売にたけた男で麻袋を闇市で買い、其れを販売した。肥料の統制の解けた25年頃からは肥料の販売に手を出し庄内だけで3000人は居たと云われる小作人を対象に販売を始めた。当時は農協、経済連ががっちりと農家を掌握していた中で商売ではあるが、江戸じだいから300年の付き合いである旧小作人達は、本間家の付き合いを断らなかった。本間家も其れに応じ、農業の専門家達を呼び色々な情報の講習会を開くなどして対応した。昭和29年には、農機具の販売をはじめ東北一円にまで販路を拡大するようになった。この頃になると本間の関連会社も多くなって来た。そして没落地主と見られていた「本間家」が中央でも話題に上り各種マスコミ、大宅壮一なども来酒し記事を書いている。その後、独立採算を敷いていた系列の各関連会社の経営が行き詰まりを見せ始め、時の社長(真子の夫興造=旧男爵の原田家の次男で後離婚)が中央から枡野寅之助を呼び寄せ、彼の手腕で人員の整理などの大改革(事に本間一族の会社への干渉の排除を含む等)を行い数十億と云う借財を整理した。しかし、後に枡野寅之助は一部使い込み、一部使途不明金の流用などが発覚して失脚した。バブル直後の本間家関連の中核的な本間物産が倒産し、一時は危ういと云う話もあったが、流石は本間家である。不動産部門をしっかりと掌握していた竃{立信成を中心に系列の会社が立ち直って来ている。
最近は県を中心に庄内で観光の目玉として「庄内雛街道」と名付け宣伝しているが、其の甲斐あって観光業者も東京、仙台あたりで観光の目玉として宣伝されている。其の中で「本間本邸」、「本間美術館」には代々集めてきたり拝領した古代雛が沢山残っており、3月〜4初旬の展示会には其の一部が展示され酒田の観光名所の一つ見所となっている。
  

追記、私見および「酒田の歴史」「酒田市史」「酒田湊繁盛記」等を参考にしました。間違いがありましたらお許しください。