第10話    「日本最古の魚拓(摺形)は鮒」   平成18年06月25日  

 日本最古の直接法の摺形(魚拓)が、江戸時代から盛んに磯釣りが行われていたここ庄内で発見されたと云う事は、地元で釣をする者にとって誠に誇らしい事である。

 そもそも魚拓とは釣り人が、自分の釣った魚を何か記録に残したいと云う発想から始まったに違いない。江戸時代東北の片隅の庄内藩(現在の庄内地方)では、すでに1830年の頃には自分の釣った魚に墨を塗って直接紙に写し取ると云う方法、つまり摺形(直接法の魚拓)が武士の間では一般化していたのではないかと考えられる。この摺形と云うのは、甲山五一氏(釣文化協会の中心人物で数々の釣に関する本を著している人物)に寄れば板木の「摺形木(すりかたぎ)」から来ているのではないかとある本の中で書いている。これは中国から伝えられた技術で、墨で同じものを大量に印刷するのに用いられたものであった。当初この技術は仏教の経典等を印刷する為の物(木版による印刷)のものであったが、町民文化の花開いた江戸時代今日で云う雑誌、単行本(草子、絵草子)、新聞(瓦版)やより高度な多色刷りの浮世絵等もこの技法を使って作られるようになっていた。ただし魚に墨を使って摺形にし、記録すると云う方法は本家中国にも無い事から、魚拓と云う物は日本独自のものと考えられる。

 その摺形の最古のものが、天保10(1839)、後天保13年に庄内藩主となった酒井忠発(タダアリ)の若殿時代(当時27)に江戸で釣り上げた錦糸堀の鮒と称する摺形(現在の魚拓)である。その魚拓が若殿付きの林治右衛門正中と云う人物が鶴岡の自宅に送ったものと見えて、林家の古文書の中から偶然発見された。酒井忠発が若殿時代に住んでいた庄内藩下屋敷は浅草阿部川町にあり、その当時釣の名所として知られていた錦糸堀は、現在のJR錦糸町の北口の北斎通りで明治時代に埋め立てられている。その両者は下屋敷からそんなに離れた場所ではなかった。若殿時代より、釣りの好きな酒井忠発は国元の庄内に帰ってからも温海温泉湯治を兼ねての磯釣りに出かけている。中でも嘉永38月の三週間の湯治では、早朝から夕刻までの釣行が七回もにも及んでいる。釣りに熱中の余り陽が落ちて松明を灯しながらの帰宿も度々であったと記録に残る。

 林治右衛門正中が鶴岡の家に送ったと云う39cmの鮒の摺形には「天保十年亥二月晦日(18393) 於錦糸堀 御獲鮒之図」とだけ書かれている。ここに御獲と書いてある事から、本間美術館の学芸員であった佐藤七郎氏は、当時若殿付きの林治右衛門正中が上司である酒井忠発と考えた。そして当時の古文書を読み漁り、江戸に居た人物を検証した結果、酒井忠発の物としか考えられないと云う結果を導き、酒井忠発が釣った鮒である特定していた。また、林治右衛門正中家の魚拓が酒井忠発の釣った鮒をその日の内に摺形に記録し家に送ったと云う事は、その当時鶴岡城下の釣好きの武士たちの間で摺形がすでに行われていたと云う証拠となっている。又、取りも直さず庄内藩においては藩の上士のから下士に至る迄、釣を武芸の一端と称し、盛んに釣を行って居た事にも繋がる話でもある。